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第一話

 覚えているのは、冷たいということ。

 なぜとか、どうしてなどと、難しいことは分からない。そもそも理由などないのだ。

 怒鳴り声が心を殴る。

 大人の拳と足が体を殴る。

 乱暴に引きずられて、固く冷たく、ぬめる床に放り捨てられる。即座に頭から降り注ぐ、冷たい水。

 寒さに凍える体に、水音と共に浴びせられる怒鳴り声。たまにとんでくる蹴り。

 だんだん、心も体もぼやけてきて、痛みは良く分からなくなる。消えるわけではないけれど、分からなくなる。

 ただ、冷たいことを、覚えている。

 そして、いっしょにいた、だれか。

 その、ぬくもり。

 だれかが、いっしょにいて、いっしょに怒鳴られて、いっしょに蹴られて、いっしょに水を浴びていたこと、覚えている。

 なにもかもがぼんやりするころ、水責めが終わる。風呂場の床に投げ捨てられた時と同じように乱暴に引きずり出される。

 水が滴る。それを理由に怒鳴られる。腕を捻られる。折れるときもある。

 それから、夜空の下に放り出された。

 季節はいつだったんだろう?きっと真夏以外のいつか。

 まとわりつく水が体温を奪っていく。

 静かに。確実に。

 覚えているのは、冷たいということ。

 朝が来る前に、いっしょにいた、「だれか」のぬくもりが、冷たい水の中に消えていったということ。


◆ ◇ ◆


 長く止めていた息を吐き出すように、薔薇(そうび)は目を見開いた。闇の向こうには見慣れた天井がある。自分の部屋だ。

 部屋は暑くもなく寒くもないが、タイマーで切れたエアコンは沈黙している。そして、全身が水に浸かったかのように汗びっしょりだった。

 これは着替えて、水分を取らないと。寝ている間に熱中症になるやつじゃないだろうか。闇に慣れた目は明かりをつけずともエアコンのリモコンを見つける。とりあえず起動しておく。

 薔薇はベッドから足を下ろすと、闇のまま室内を横切り、中学生の部屋にあるにしてはいかつい大きな和箪笥を引き開けて、新たな寝巻きと下着を取り出す。それらを抱えて、階下の風呂場へ向かう。タオルの類いは風呂場に置いてあり、びしょぬれの衣類を入れる洗濯かごも当然風呂場にある。


 ここじゃない。この風呂じゃない。


 唇が、音を発さずに戦慄く。だが足取りはしっかりと、薔薇は明かりをつけずに一階へと降りていく。

 髪もだいぶ汗ばんでいるが、シャワーを浴びるのは面倒だし、薔薇の髪は長い。シャワーとドライヤーの騒音は間違いなく家族を起こすだろう。

 顔だけ洗って、濡らしたタオルで念入りに全身を拭く。熱帯夜だから、冷たくてもタオルは心地よかった。

 乾いた寝巻きと下着に着替え、脱いだものは洗濯ネットにいれ、洗濯かごへ。明日の洗濯物が増えてしまったが仕方がない。

 すっきりした薔薇は台所へ向かう。相変わらず、闇のなかを明かりをつけずに歩いていく。

 冷蔵庫を開ければ、食材と作り置きの料理、調味料やバターの類い、麦茶、ハーブティー、牛乳、カルピスの原液が整然と並んでいる。薔薇は麦茶を選んで扉を閉める。その後ろに、小さな人影が立っていた。

「うおっ」

「どうかしたの?」

 さすがに驚く薔薇に、静かに問うのは生きた人間で、家族のひとりだった。

「どうして鶺鴒(せきれい)浮草(うきくさ)も、ホラー映画みたいに現れるの?」

「え、そうかな?」

「扉閉めたら、そこにいるってスタンダードだけどコワイヤツだよ」

 闇の台所に音もなく現れたのは八歳年下の薔薇の家族、同じ防人(さきもり)の姓をもつ浮草だ。複雑な事情があるので、一年前後年齢は違う可能性はあるが戸籍上はそうなっている。弟というわけでもない。詳しく聞いたことがないので、訪ねられたら親戚と言っているが、赤ちゃんの頃から面倒を見ているので、弟とそう変わらないだろう。血縁者なのは間違いないと、薔薇は思っている。なにしろ浮草は、薔薇の七歳年上の兄・鶺鴒の子供の頃にそっくりだ。特に言動と、目が。

「どうかしたの?」

 最前と同じ問い。だが、浮草にはたぶん分かっている。鶺鴒もそうだからだ。

「悪夢見て、飛び起きた」

「うん」

「久しぶりに怖かったよ」

「うん」

 コップに麦茶を注ぎながら、端的に話す。浮草もコップを差し出してきたので注いでやり、麦茶を冷蔵庫に戻す。

「もしかして、だれかが憑いてたりする?」

「ううん、いないよ」

「そっかあ。7月のお盆やってるし、もしかしたらだれかが帰ってきてるのかと思った」

 この辺りでは、7月お盆派と8月お盆派がいて(特に対立などはしていない)、夏の半分くらいがお盆だ。

「みんな、薔薇ちゃんに怖い思いをさせたりしないよ」

「…そっかあ。じゃあ普通の、記憶のせいで見た夢だね」

 麦茶を飲み干す。冷たくて美味しい。冷たいことは、別に怖いことでもなんでもない。熱帯夜の見せた悪夢の後なら、なおさら冷たい飲み物は美味しい。

 浮草も麦茶を飲み終えて、二つのコップを流しに置く。真夜中の洗い物も、他の家族の安眠妨害になる。

「じゃ、寝直すかあ」

「うん。おやすみ、薔薇ちゃん」

「おやすみ、浮草」


◆ ◇ ◆


「おはよう、(ゆき)ちゃん」

「おはよう、薔薇………どうした?」

 翌朝。いつもどおりの朝の挨拶、になると思いきや。薔薇の顔を見た幸広(ゆきひろ)が、いつもより目を見開いて、びっくりしている。薔薇は「へ?」とまぬけな声を洩らした。

 幸広は、複雑な事情で防人家にいっしょに住んでいる。薔薇と同い年の十五歳で、七歳の頃からの付き合いなので、ほぼ姉弟だ。薔薇のほうが二ヶ月早く生まれているが、あんまり弟とかそういう感覚はない。幸ちゃんは幸ちゃんだ。

 テーブルに今日の朝食を並べていた幸広は、そろそろ切った方が良さそうな中途半端な長さの黒髪を髪ゴムでくくり、エプロンをかけている。猫背気味だが、しゃっきり背を伸ばせば、薔薇より二十センチも背が高い。幸広について、唯一嫌いなところだ。同い年で、出会ったときはどっこいどっこいの背丈で、八年間ほとんど同じものを食べて育ったのに。許せない。それ以外は大好きなのだが。

 そんなことを思いつつ、とりあえず薔薇は自分の体を見下ろす。顔は洗ったし、髪はちょっとガサついているが梳かして、いつもどおりのざっくり一本の三つ編みに纏めた。中学の制服もきちんと来ている。夏なので上は半袖白シャツとリボン、下はダークグレーのスカート。身支度の時、ちゃんと姿見で見ているので、変なところはないはずなのだが。

「どうしたんだ? 大好きなシャウエッセンと目玉焼きなのに」

 幸広は心配そうに言う。言葉通りのメニューが食卓に並ぶ。他にはトーストと山盛りのサラダ。選べるように牛乳、オレンジジュース、水のピッチャーがある。ホテルの素敵な朝食のようだ。和洋で内容は変わるが、幸広が朝食を担当する日はいつもこんな感じだ。

 そう。昔と違って、もう何年も、こんな素敵な朝ご飯を食べている。

「まさか……食欲がないのか?」

 愕然とした顔で、テーブルを迂回して薔薇に駆け寄る幸広。

「えっ、あ? そんなことない食べる」

 素早く手首を掴まれ脈を取られ、額に逆の手が当てられる。光の射し込み方で鈍い銀にも見える灰色の目が、薔薇の焦げ茶色の眼球を確認するために思い切り近づく。

「あー、ちょっと寝不足? 良く寝た気がしない」

「朝に弱いのはいつものことだろ。肉の匂いに何の反応もしないなんて…脳腫瘍でもできたのか? それで眠れなかった?

もしくは新種のウイルス……違う、ウイルスごときに薔薇の免疫が負けるわけがない。普通にやばい祟り神に憑かれたんじゃ」

「おはよう、幸広くん」

「おはよう、浮草。薔薇の様子がおかしい」

「薔薇ちゃんは病気じゃないし、なんにも憑いてないよ」

 背後にいつからいたのか、浮草が挨拶と共に説明する。

「ほんとだよ。昨日の夜中、起きちゃったんだよね。その後もあんまり寝れなかったの?」

 テレビの前のソファにランドセルを起きながら浮草が言う。

「薔薇ちゃんにだって、そういう日はあるよ」

「それもそうか。ごめん、肉に無反応だったから、動揺した」

 ニッコリする浮草に、珍しく慌てていた幸広がいつもの平静さを取り戻し、薔薇から手をはなす。

「あ、はい。いや違うな、え、あたしって肉にそんなに反応するの?」

「「する」」

 異口同音に言われて、薔薇は「そっかあ」と呟いて通学カバンをランドセルの隣に置き、いつもの席に座った。

 椅子に座って食事の匂いを嗅ぐと、幸せな気分が胸一杯に沸き起こった。自覚はなかったが、幸広の指摘するとおり、なにかしらの仕草に出るほど昨夜の悪夢を引きずっていたらしい。

 薔薇の表情が見るからに明るくなったのを見て、幸広もやっと安堵して席に着く。浮草も座って、オレンジジュースをコップに注いだ。

「「「いただきます」」」

 いつもの防人家の朝食が始まった。


◆ ◇ ◆


 朝食を終え、食器を水桶につけると、薔薇は幸広が作ってくれたお弁当をニッコニコしながら大事そうにカバンにしまい、「いってきまーす!」と玄関へ歩き出す。

 その背を追って、浮草もランドセルを背負い、幸広から洗濯済みの体操着のはいった袋を受け取る。

 灰色の瞳が、浮草の真っ黒な両目にピタリと合う。

「うん。本当にだいじょうぶ。あぶないことはないよ」

「それなら良いんだ。薔薇をどうこうできるようなヤツ、オレなんか瞬殺される」

「ふふふっ、そんなことないと思うけど。でも、おれがちゃんと見てるから心配しないで」

「ああ。気をつけて、いってらっしゃい」

「いってきまーす!」

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