第1話《名前しか覚えてない》
気がつけば、知らない空の下。
木が青く、建物は石で、人々の耳はとがっていて――
ここは明らかに、俺のいた世界じゃない。
だけど、俺は生きている。
手には力が入るし、足も動く。
俺の名前は、アキラ。
それだけは、なぜか確かに覚えている。
「……あなた、大丈夫? こんなところで」
耳にやさしい声が届いて、俺はゆっくりと目を開けた。
まぶしい空。見たこともない白と金の衣。
その奥に、女性が一人、心配そうに顔を覗き込んでいた。
ゆっくりと体を起こす。
寝ていた場所は、木の根元。広場の端だろうか――街のような風景が目に入る。
空が、妙に青白い。
見上げた木は、葉の色が青というより、緑に近い青――青磁色というべきか。
街を行き交う人々の服はどれも質素で、だが不思議と華やかさを感じた。
そして何より――耳が尖っている。
どこか、物語の中の世界のようだった。
でも、それよりも奇妙なのは、俺自身だ。
手が小さい。足も短い。
地面を支える感覚が、あきらかに“子ども”のそれだった。
「あなた、名前は?」
もう一度、声がかかる。
「……アキラ」
気づいたら口にしていた。
それだけは、すっと出てきた。でも――
「それ以外、何も……思い出せないんです」
女性――シスターだろうか。彼女は少しだけ驚いたように目を丸くして、それからふっと微笑んだ。
「よかったら、うちにいらっしゃい。困っている子どもたちを保護しているの。あなたみたいな子も、たくさんいるのよ」
その手は、あたたかかった。
名前しか覚えていない少年の、新しい生活がはじまろうとしていた。
魔法の世界の住人、魔法が使えず、今これ。
誰も知らない街で、名前しか覚えていない状態で目覚めたアキラ。
彼が出会ったのは、優しい声とあたたかな手を差し伸べるシスターだった。
ここから、静かでにぎやかな「魔法の使えない日常」がはじまる。