03 儚い約束
次の日。
エドワードはいつものように、フォーセット男爵邸に午後一番から遊びに来た。
図書室の隅にある陽が当たる彼のお気に入りの場所に座り、お父様がこの前に異国で新しく購入してきた本を開き真剣に読んでいるようだ。
光を受け艶めく黒髪の下には、光彩が見えそうな印象的な黒い瞳。完璧に整った造形を持つ顔は真面目な表情を浮かべていた。
そして、これまでの私ならば黙ったままで定位置の椅子に座り、時折、エドワードと他愛もない事を話しながら、ゆったりとした時間を過ごす。
アイリーン様から求婚を受けたばかりのはずのエドワードは、にくらしいくらいに何も無かったようにいつも通りだった。
……私は兄から昨夜にあの話を聞いてから、眠れないほどに悩んだというのに。
「エドワード。来ていたの」
私が声を掛けるとエドワードは開いていた本から視線を上げて、目を細めて微笑んだ。
「リゼル。今日は機嫌が良いの?」
「……いいえ。どうして?」
私の機嫌なんて……良い訳なんてあるはずがない。もしかしたら、彼はふざけているのかもしれないと、この時私は少し思った。
エドワードは開いていた本を持って立ち上がり、私に向かってゆっくりと近付いて来た。
「僕に君から声を掛けてくれただろう? いつもは僕が何か話掛けるまで、何も言わないのに。珍しいと思った」
私がいつもそうしていたのは、真剣に本を読むエドワードの邪魔してはいけないと思っていたからだ。
彼は図書室にある小さな階段を降りて、真ん中にある大きな四角い机の近くに立ち尽くす私に顔を近づけた。
不意にそんなことをされたので、私は反射的に顔を引き、エドワードはそんな戸惑った様子を見て楽しんでいた。
「……そうだったかしら?」
わざとらしく視線を逸らし顔を背けた私に、エドワードは一歩近付いた。
「そうそう。何か嬉しいことでもあったの? ……ああ。高価な毛糸のおねだりなら、聞けないよ。君にはもう編みぐるみに関する物を二度と与えるなって、何度も言われていて、スチューに叱られるからね」
同じ年齢のエドワードと兄スチュアートは、共に愛称のエディとスチューと呼び合う仲だ。
けれど、兄はやはり身分差を考え、一線を引いて付き合っている。エドワードはそのことについて、何か思うところはあるはずだけど何も言わない。
というか、言えないのだと思う。生まれ持った身分差なんて、本人たちにはどうしようもないことだし。
「お兄様ったら、エドワードにそんなことまで言っていたの……?」
兄は私がせっせと没頭して作り続けている編みぐるみについて、あまり良く思っていない。
最初は可愛い趣味だと褒めてくれていたのだけど、編みぐるみを作る趣味自体を良くないと考えている訳でもなく、延々それを作り続け、外にもまったく出ない私の行動に不満があるのだと思う。
今思うと、エドワードとの頼りない結婚の約束を夢見ていた私に、そろそろ諦めて外に出ろと示す機会を窺っていたのかもしれない。
「スチューはリゼルに外に出て欲しいんだよ。僕だって家に篭もりきりだと、身体に悪いと思うよ」
慈しむような、優しげな表情だ……これは、どういう距離感なのだろう。
もしかして、妹のような気持ちで私を見ていた? ……私はずっと、エドワードは将来結婚する男性だと思っていたけれど。
「ねえ。エドワード。アイリーン様から、求婚されたと聞いたけど、本当なの?」
それをいきなり私から質問されたことに驚いたのか、エドワードは目をまんまるにしていた。
「……知っていたんだ。リゼル」
……ええ。私はエドワードが思っていた通りに知らなかったけれど、兄から教えてもらった。
そんな細かい説明はここで要らないだろうと思い、つっけんどんに質問を返した。
「私が知っていたら、いけないの?」
私が目を逸らさずにじっと見つめたら、エドワードは一歩身体を引いて否定する意味で首を横に振った。
「いや……ああ。アイリーンは、流石『令嬢ランキング』で首位なだけあって、完璧なご令嬢だったよ」
ここで私が聞きたいのは、求婚したと言う彼女に対する感想ではなかった。
求婚は……断ったと、そう聞きたかった。私と結婚するからと。
「どうせ……私は、完璧ではないわよ」
子どもっぽく拗ねたような口調になってしまうのは、もう仕方ない事だった。だって、私は『完璧なご令嬢』にはほど遠いことに、誰よりも一番に自覚があるからだ。
「……二人は、比較にもならないだろう」
呆れた様子のエドワードの言いように、私はカチンと来てしまった。
私と結婚の約束をしたことは、絶対に忘れていないはず。エドワードは学者のお父様がお墨付きを授けるくらいに、とても優秀な頭脳を持っているもの。
あの出来事を忘れたりするはずなんてない。それなのに、私と彼女を比較して、そんな事を言うなんて。
「なんですって?!」
半目で睨みつけつつ怒った口調になった私を見て、エドワードは降参するように両手を挙げて、見るからに慌てた様子になった。
「待ってくれ。リゼル。『令嬢ランキング』に参加する令嬢たちは、常に自分を律し磨いているんだ。リゼルは家でいつも本を読んでいるか、編みぐるみを作っているかだろう。一般的に言うと……」
エドワードが今ここで言わんとしていることは、事実だった。
けれど、たとえ事実で正しい事だとしても、誰にだって言って欲しくないことはあるはずだ。
「……あらそう! そういうことね。私。もうちゃんと理解したわ。婚約者に誤解されてしまうと、私が迷惑するから、フォーセット男爵家にはもう来ないで!」
「えっ……リゼル?」
怒りにまかせて完全に目が据わってしまった私に、エドワードはこれまでに見たこともないくらいに狼狽えていた。
私は今までそうしなかったのは、ゆりかごのような心地良い場所を壊したくなかったから。
……今はもう、壊れてしまった。エドワードの手で。
「今までは私にもエドワードにも、お互いに相手が居なかったから、特に気にすることもなかった。けれど、お忘れかも知れないけれど、私だって未婚で婚約者も居ないのよ。変な噂が立てられて、誤解されてしまうなんて、まっぴらごめんだわ。さっさと、出て行ってちょうだい!」
生まれてからこの方、こんなにも早口で誰かにまくし立てたことなんてなかった。
やれば出来るものだなんて、頭の片隅で冷静な私が感心していた。
こんなにも怒って喋る私を見たこともなかったせいか、エドワードの顔色は一気に真っ青になり、彼は慌てて居るようにも怯えているようにも見えた。
「ちょ」
「ああ。私が気にしない方が、おかしかったのね……だって、父も兄も不在の時に、異性が私一人だと知りつつ邸にやって来るなんて、私の婚約者でもないのにおかしいわよね。どうして、もっと早く気がつかなかったのかしら……さぁ、早く出て行って!」
怒った私の勢いに完全に呑まれたエドワードは、じりじりと一歩ずつ後退して、やがて図書室の扉付近にまで辿り着いた。
室内に居る私たちは、未婚の男女。当然のように図書室の扉は大きく開け放たれて、エドワードは部屋の外まで後退した。
「リゼルっ、僕の話っ」
ここまで来たら、一旦は追い出されるしかないと思ったのか、必死の形相になったエドワードの顔を見て、私は冷静に彼の胸に両手を当てて押し出した。
……そうね。お兄様の言うとおりだわ。
こんな必死になっている時だとしても、エドワードの容姿が良い事には変わらない。沢山の魅力的な要素を持つエドワードは余裕ある選ぶ側、対して私は誰にも選んで貰えていない側。
こんなにも格差のある男女に、お互い対等でないと成立しない恋愛なんて、芽生えるはずもなかった。
あれは、ただの口約束。幼い頃の、夢の中での出来事のようなもの。
儚い約束は、砕け散って消えてしまった。
「何の非もない私が、エドワードの婚約者に不要な妬みや誹りを受けるなんて、まっぴらごめんなの! もう二度と、私の前に現れないで!」
「まっ」
私は扉を大きな音を立てて閉めて、中から鍵を閉めた。
開けようとしてかガチャガチャと何度か音がして、名前を呼ばれながら扉だって何度か叩かれたけれど、私は逃げるように両手で耳を塞いで机の下で蹲った。
……聞きたくない。何も聞きたくない。
私との約束なんてどうでも良くて、もう忘れてしまったという決定的な言葉なんて、絶対に聞きたくない。