16 勇気
「ああ……おかえり。リゼル」
「あら。お兄様。ただいま帰りました」
私がフォーセット男爵家にまで帰り着くと、玄関ホールにまるで待ち構えていたかのように兄スチュワートが顔を出したので、私は常ならぬ兄の行動に不思議に思いながらも挨拶を返した。
「今夜の夜会は、どうだった?」
この前に『品格』の試験内容を伝えたので、何か粗相はしなかったのかと、兄は心配してくれたのかもしれない。
「……ええ。今夜は参加必須でしたので、参加者の皆様にお会いしました。他は特に何もなかったですわ。ああ。何人かお誘いを受けたので、ダンスをしましたけれど」
初対面の何人かの紳士と会話したことで、かなりの疲労を感じていた私は長手袋を外しつつ、兄の質問に答えていた。
「……それ以外には、何も?」
何かを探るような兄の質問を少し不思議に思いつつ、私は否定する意味で首を横に振った。
「ええ。参加者の方と少しお話をしましたが、特に変わったことはありませんでしたわ」
私がそう伝えると、兄は大きくため息をついた。
「ああ……そうだったのか。なあ、リゼル。エドワードはアイリーン様からの求婚について、まだ受けてはいないらしいよ」
完全に油断していたところに不意を突くような兄の言葉を耳にして、私はとても驚いたし、そんな様子を見た兄は複雑な表情を浮かべていた。
「えっ……どうして?」
私は兄から知らされた事実に、思わず声が震えてしまった。
『令嬢ランキング』が開催された長い歴史の中で、序列五位以内になって、求婚したご令嬢たちは今までに断られたことがない。
あの制度が人気ある一番の理由でもあったし、貴族令嬢であるからには、少しでも良い条件の男性と結婚したいという希望は、誰しも持っているものだろうからだ。
だからこそ、自らの条件が悪かったとしても、そこからの逆転を狙って挑戦したいと思う貴族令嬢は多かった。
「……さあな。どうしてだろうな。お前が本人に、直接聞いたらどうだ? 長い時間を共にした幼馴染なんだから。少しでもあいつに情が残っているのなら、話くらい聞いてやっても良いだろう」
これまでエドワード本人、兄スチュワートが何かを何度も言いかけていたのを、敢えて無視していたのは私だった。
……やめて。あり得ない。そんなはずはない……エドワードが、アイリーン様より、私を選ぶなんて、そんな事。
そんなことなんて、ある訳がないんだから。
「あの……お兄様。一体、何が言いたいの?」
私がおそるおそるそう聞くと、兄は大きくため息をついて答えた。
「もう僕もいい加減に、嫌になっているんだ。そろそろ、エドワードから話を聞いてやってくれ。お前たち二人の間で、板挟みになっている僕の気持ちになってくれないか」
そう言い放つと自分の役目はもう終えたとばかりに、兄は音を立てて階段を上って二階へと進んだ。
そして、私は兄が言った言葉の意味を考えていた。そういえば、エドワードは今夜だって私の事を見ていた。そして、彼が近づいて来ようとした事を察したから私は逃げるように帰った。
いつまでも、現実から逃げ続けていられないことは、私自身だってわかっていた。
けれど、どうしても……持ってはいけない希望を、持ってしまいそうになる。
エドワードが幼い頃に結婚の約束をした幼馴染の私を捨てて、何もかもを兼ね備えたアイリーン様と結婚するのなら、どうしてここまでしてくれるのだろう。
もし……ここでそんな希望を持ってしまって、再度潰えてしまったら?
心が壊れてしまう……それが、ただ怖かった。
エドワードはとても優しい。
私との関係に納得出来るまで話をして、それが解決してから、アイリーン様との事を進めようとしてくれているだけなのかもしれない。
少し前までの私のように、家に篭もってただ編みぐるみ作りに没頭していれば、怖いことも苦しいことも何も起こらなかった。
兄スチュワートはそんな私に対しあまり良い顔はしなかったけれど、両親は私と同じように、エドワードと結婚するのだろうと考えていた節があった。
あの時に……アイリーン様と私は比較にもならないと言ったのは、他でもないエドワードだった。
もし、私と結婚するから断ったと言ってくれたら、何も思わなかったはず。こんなことにもなってないだろう。
……けれど、兄の会話を思い出すと今夜私が参加必須の夜会の事を、エドワードへと伝えたのは、兄スチュワートだろう。
私が出席するとわかっていたから、エドワードは来ていたのかもしれない。
単なる事実として今夜の夜会でのエドワードはアイリーン様とは、踊っていなかった。他の四人は、パートナーと踊っていたのに。
私も見たくない事実を真っ直ぐに見つめなければならない時が、来ているのかもしれない。それが自分の恐れているものだったとしても、乗り越えていかないと前には進めない。
それに、エドワードとのことでモヤモヤした気持ちが少しでも残っているならば、彼ではない他の誰かと結婚するのなら、彼への未練を解消しておくべきだった。
勇気を出して、私だって、一歩踏み出すべきだ。
……エドワードだって、きっとこれまでに何度も、私に対してそうしてくれていたのだろうから。