11 権利
長い間、分厚いレンズ越しに見ていたし、私は鏡を見ることは好きではなかった。
眼鏡を外した自分を久しぶりに鏡で見た時、初見は信じられなくて『これは誰なの?』と驚いてしまった。
鏡の中にはあまり見覚えのない顔が映っていたし、恥ずかしい自惚れかもしれないけれど、その造作はそれほど悪くないように思えたからだ。
じっくりと頭からつま先まで全身鏡を見たところ、この前に見たご令嬢たちから比べるとドレスはやっぱり時代遅れのように思えるし、髪型だって凝っていなくてあまりにシンプル過ぎる気がした。
今まで見たくないと目を逸らし続けていた事実をこうして直視して、改善すべき点をひとつひとつと改善していくしかない。
それは、『令嬢ランキング』参加しようと思う前に自分が思って居たよりも楽しくて、やり甲斐を感じることだった。
あのまま、もし幼馴染エドワードと結婚しているならば、それはしなくて良い努力だったかもしれない。
けれど、結局のところ、エドワードは私以外と結婚するのだ。その事実を思えば、ずきんと胸が痛んで両手で押さえた。
私は……将来、エドワードと結婚するって、そう思って居た。彼は私との時間を大切にしてくれていたし、長い時間を共にしていた。
けれど、エドワードは約束なんて忘れてしまっているだろうし、社交界デビューも終えた私に結婚を申し込んでくれることもなかった。
ただの悲しい、思い込みでしかなかった。
「次は、ドレス。そして、髪型ね……」
エドワードの事を考えていても、ただ悲しくなるだけだ。だから、出来るだけ別のことに意識を逸らそうと思った。
誰かが失恋してしまえば髪を切りたくなる気持ちが、今ならば理解出来る。
彼のことを考えてしまえば足元が底のない沼になりそうなくらい、気持ちが沈んで戻ってこられないのだから、外見を無理にでも変えて気分を変えるしかない。
◇◆◇
「まあ……これはこれは! お似合いですわ。リゼル様。こちらは、どうなさいますか? お買い上げになりますか?」
私は行きつけのメゾンで目にして気になった、飾り気のない灰色のドレスを試着させて貰った。
顔見知りの店員にも似合うと熱心に勧められて、そんなに悪い気はしなかった。
一度も着た事のないシンプルなドレスを着ていた鏡に映る自分は、これまでに見た事もないくらいに大人っぽく見えた。
大きな眼鏡を外し、メイドに頼んで下ろしていた髪を纏め上げたこともあり、まるでこれまでの自分ではない誰かがそこに居るかのよう。
私は間違いなくリゼル・フォーセットだけど、眼鏡を外し髪型を変えて服を着替えた、ただそれだけなのに、違う誰かになれたような不思議な感覚だった。
この灰色のドレスは大口の顧客から色が気に入らないとキャンセルが出てしまい店内に飾られていて、店員から行き先に困っていると聞いて思い切って試着してみることにしたのだ。
これまでに私が着ていたドレスのような野暮ったさはなく、身体のラインが出るすっきりとしたシルエットだった。
「そうね。すごく……気に入ったわ。このまま着ていこうかしら」
胸に手を当てて確認すれば、ドレスはまるで誂えたかのようにピッタリなサイズで、本来ならば顧客から注文を受けて作成する受注生産が基本のメゾンのせいか、価格だって驚くほどに安い。
これはまるで私に買えと、用意されたかのような偶然だった。
「ええ! ええ。本当にお似合いですわ。リゼル様。少々お待ちください。色味を揃えて、帽子と靴もお出ししますわ」
鏡でもう一度自分の姿を確認すれば、ため息が出てしまうくらいに大人っぽくて、上品なデザインのドレスだった。
色味はくすんで落ち着いているけれど、薄く光沢があって高価な生地。それに、まるで小さな花を添えるように飾られた真っ白なレース。
……そうよ。今をときめくあのアイリーン様が、好んで着られるようなドレス……流行を作る社交界の華が着るドレスに似ているのなら、これは間違いないもののはずだわ。
私が向ける彼女に対する個人的な事情なんて、気にしている場合でもない。
こういったデザインでと何着か注文している間に、ドレスに合わせた帽子と靴も用意してくれて、私はそのまま試着したドレスで帰ることになった。
「っリゼル!」
新しいドレスに気分を良くして馬車に乗り込もうとしていた私は、聞き覚えのある低い声に名前を呼ばれて振り返った。
「……エドワード? どうして貴方がここに居るの?」
エドワードはそれには答えずに、私が立ち止まった場所へと小走りでやって来た。
「リゼル……良かった。会えた。少しだけで良い。僕の話を聞いて欲しいんだ」
サラリと揺れる癖のない黒髪は艶があり、やたらと整った顔に浮かべた表情は、これまでにあまり見たことがくらいに焦っていた。
そんなエドワードを見ただけなのに、不覚にも、私はときめいてしまった。
ううん……ここに多忙なエドワードが、ただ偶然に居るなんて信じられないわ。
きっと、私がメゾンに来ると知っている者の……兄スチュワートが、情報源ね。
「私は貴方と話なんて、ないのだけど……」
もしかして……謝罪しようとでも、言うのかしら。私に長年勘違いをさせたことを?
それって、失恋した乙女の傷に塩を塗るような行為であることを、エドワードは知らないのかもしれない。
また一歩近付いて来たエドワードは私を見て、片手で口を覆った。
「リゼル。眼鏡は……? それに、このドレス……」
外見の変化に信じられないと言わんばかりだけど、私だって一応貴族令嬢でお洒落をするのよ。
……貴方には関係ないでしょと、再度突っぱねたかった。けれど、こんなにもひと目のある場所で、目立つ存在のエドワードを無視してしまう訳にはいかない。
軽く息をついて、エドワードの質問に答えた。
「ええ。この前に、魔法屋で、視力を良くして貰ったの。このドレスは」
言い掛けた私の言葉を遮って、エドワードは血相を変えて言った。
「魔法屋……? とんでもない金額をふっかけられると、聞いた事がある。それは、大丈夫だったのか?」
心配そうに言ったエドワードに対し、私は彼に頷いて安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。ある人にお金を借りているけれど、ちゃんと返すわ」
別に返さなくても良いと言って居たレヴィンには、気になるようなら魔法使いオズワルドの店にお金を持っていけば良いんじゃないと軽く言われていた。
一時的には彼に出して貰っていることになるけど、持ち合わせがまったく足りなかったのだから仕方ない。
「金を、借りている……? スチュー、ではないよな……もしかして、男か!?」
そこでエドワードがいきなり腕を掴んだので、私は驚いてしまった。
こんなにも焦ったエドワードを見たのは、これが初めてなように思えて。
「あ。離して……エドワード」
「このドレスも……? まさか……たった数日離れていただけだと言うのに。誰なんだ!? これは、リゼルには、似合わないだろう!」
何か良くない誤解をしていると思った……けど、やっぱりおかしい。
そんなことを言う権利、エドワードにはないのに。
「もうっ! やめてよ。エドワードには、関係ないでしょう!」
「良くないなー。これは良くないと思う。可哀想に。リゼルが怯えているよ」
いきなり私の前に大きな背中が立ちはだかり、それは、聞き覚えのある声に、見覚えのある銀髪。
「……レヴィン?」
そこに居たのは、あの時に私を何度も助けてくれたレヴィンだった。




