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石川真央ー5

 男性、草薙貴博は、真央に注意をしたものの、全く気にはしていなかった。わざとやられると困るが、餌をやる時なんて、たいてい魚たちは大騒ぎをする。この程度、よくあることだ。

 むしろ、真央が魚を見たときに見せた表情の方が気になった。

 整えられただけの眉。その眉の見え方でわかる斜めに切られた前髪、白い肌。細くても決してやつれているわけではない顔のライン。そして、大きく見開かれたはっきりとした目、小さくとも笑みを作る口。唇にはリップも口紅も塗られていない。

 貴博は、「いかんいかん」と首を振る。貴博は妻帯者で、妻は札幌の実家に住んでいる。里帰り出産をさせたら、そのまま居ついてしまった。とはいえ、夫婦仲が悪いとは思っていない。月に何度か妻の実家に泊まりに行っているし、定期的に電話で話もする。それに貴博は三十三歳。二十歳そこそこに見える真央に顔を赤くしたなんて、誰にも悟られてはいけない。

 だが、貴博は、もうちょっとだけ真央の笑顔を見たくなった。謝らせてしまったので、真央の顔が曇って見える。


「ちょっとここで待っててくれる?」


 貴博は台から降りて、近くの部屋へ入っていく。

 冷蔵庫を開けて、中から配合飼料が入ったボトルを取り出す。このボトルは、契約職員が魚に餌をやるときに持っていくものだ。そのボトルから配合飼料を掌に乗るくらいの量をバットに移す。あまり少なくても面白くないかな、と、もうちょっと出してみる。ボトルを冷蔵庫にしまい、貴博はバットをもって部屋を出た。


 貴博は再び台の上に立つ真央の横に並ぶ。そして、バットを差し出す。


「これ、この魚の餌。手でつまんで水槽の中に落としてみて」


 真央は、餌を一つつまんで、水槽の中に、ぽとりと落とした。


 ポタン、


 と餌が水面に落ちた瞬間、目の前に餌が落ちてきた魚がパクッと食いつく。それを見てかどうかわからないが、大きな輪を作って水槽の中を泳いでいた魚の群れが真央の前でキュッと輪を縮めて、泳ぎを速めた。


「もっと多くいっぺんにやってごらん」


 真央は、白く細い五本の指を使って、餌つまむ。そして、それを水面にポイッと投げ入れた。その瞬間、


 バシャバシャバシャ!


 水面を魚がたたく。


「キャッ」


 真央は水しぶきをよけるために顔をそむけた。貴博の側へ。その顔は決して嫌なものから避ける顔ではない。さっきと同じ、いや、それ以上の笑顔だった。


「センセ! 食べてます。魚たちがあんなに必死に。もうちょっとやっていいですか?」


 真央はたった一回の餌やりをしただけで興奮状態だ。

 センセって、なんだよ。と、貴博は思ったが、喜んでもらえたのなら、いや、その笑顔を見れたのなら、幸いだ。


「どうぞ」


 と、真央にバットを差し出す。

 真央は、餌を水槽に入れる。


「ほら、ご飯だよ。キャッ! 水かけないでー、あはははは」


 研究センターでは、年に一度、一般公開として、地域の人たちに施設を見てもらっている。その時に子供を対象として餌やり体験をさせているが、真央のそれは、子供のそれと同じだった。


 貴博のほほは、どうしても緩んでしまう。


 真央は、餌を与え続ける。そして、バットに残った最後の一つを水槽に入れて、


「はい、おしまいです」


 と、魚に告げた。

 それをわかってかどうかわからないが、魚たちは、再び水槽中に広がってゆっくりと泳ぎ始めた。


「さ、こっちに来て。手が汚れちゃったから洗おう」


 台を降りて歩き出す貴博。それについて行く真央。二人は先ほど貴博が餌を取りに行った部屋へ入る。


「そこの流しで手を洗ってね。瞬間湯沸かし器でお湯を出して、そこにハンドソープがあるから」


 真央はハンドソープを掌に取り、手の甲で瞬間湯沸かし器のボタンを押す。

 右手の指先しか汚れていないが、両手全体を洗っておく。洗った手を、ピッピと水気を飛ばし、再び手の甲で瞬間湯沸かし器のボタンを押して水を止めた。


 ハンカチハンカチ、と真央が思っていると、スッとペーパータオルが差し出された。

 真央はペーパータオルと貴博の間を視線を行き来させる。


「これで手を拭いて。うちの研究センターは生き物を飼っているから、生き物の病気にも敏感でね。ほとんどのものが使い捨てになっているんだ」


 真央は遠慮がちに一枚を引き出し、手を拭いた。


「ごみばこ、そこね」


 貴博が指をさした先にあったゴミ箱へ、真央は丸めたペーパータオルをそっと落とした。



「続きを見に行こうか」

「はい」


 貴博は小さい、とはいっても直径が一メートルはある水槽がたくさん並んだエリアへ真央を連れて行く。中には緑色の水が入っている。


「水槽を覗き込んでくれる?」


 真央は言われるがままに水槽を覗き込む。髪がおちないように左手で左側にまとめて。


「あ、この小さいの、魚ですか?」


 中には、二センチくらいのシラスが泳いでいる。


「そう。さっきの魚の赤ちゃん。先月生まれたばかり」

「へー。全然銀色じゃないんですね」

「今はシラスだけど、だんだん形が変わっていくんだ。でね、この小さな魚も育ててほしい」

「えっと、餌はなんなんですか? さっきみたいな餌ですか?」

「水槽をよく見てごらん」


 真央は、再び水槽を見つめる。

 見つけた。何かがヒョコヒョコ泳いでいる。


「この小さいやつですか?」

「見つけた? それ、ある種のエビの赤ちゃんなんだ。それを餌としてる。魚をよく見てごらん、おなかが赤くなっているでしょ? 餌を食べているんだよ」

「あ、本当ですね。いっぱい詰まってます。いっぱい食べてるんですね」

「さあ、そろそろ戻ろうか。戻りながら、もうちょっと仕事の説明をします」


 貴博は道を戻る。真央は後ろではなく横に並んで歩く。説明を聞くためだ。


「今説明したのは、餌やりだけど、実際には、水槽の掃除もしてもらう。魚たちだって、食べたら糞をするからね。それから、死んじゃった魚なんかは取り上げないと水が悪くなるし」


 真央が顔をしかめる。


「死んじゃうんですか?」

「そりゃ生き物だからね。だけど、なるべく死なないように上手な飼育の方法を作るのも僕らの仕事なんだ」


 そうか。魚も若くして死んじゃう子がいるんだな、真央は思う。


「あの、魚にも心臓があるんですか?」


 貴博はきょとんとする。


「あ、あるよ。もちろん。さっきのシラスなんて透明だから、顕微鏡で見れば心臓が動いているのも、血液が流れているのも見ることが出来るよ」


 魚が死んじゃう原因は何だろう。やっぱり心臓が止まってしまうのだろうか。真央は手を胸にあてて自分と対比する。


 話題を変えようと、貴博は説明を続ける。時間は有限だ。


「掃除のほかに、使い終わった水槽を洗ってもらったり、片付けてもらったり。それから、魚の大きさを測るのを手伝ってもらったり。その辺が主な仕事かな。後は、空いている時間は実験室を片付けてもらったり、掃除してもらったりとか」


 貴博は、実験室をまともに片づけられない自分をちょっと恥じる。


「水槽を片付けるって、中の魚はどうなるんですか? 海に帰しちゃうんですか?」

「……」


 貴博は言いよどむ。これがこの仕事の好き嫌いの分かれ目の一つである。


「さっき言ったけど、育てた魚を使ったり、いろんな条件で魚を育ててデータを取ったりしてるんだ。だから、実験が終わったら、捨てちゃうんだ」


 言葉を選ぶ。


「海へですか?」


 真央は、もう一度聞く。


「……殺しちゃうんだ」

「……」


 歩きながらも、真央の顔が固まっているのがわかる。だが、そこまで言ったら、貴博は言わないといけないと、確認を取らないといけないと、口を開く。


「さっき餌をあげた魚がいたよね。餌をもらって喜んでいたよね。あの魚たち、僕が殺して、って言ったら、全部殺してくれるかい?」


 真央は立ち止まってしまう。さっき、元気に泳いていた魚を、餌をもらって喜んでいた魚を殺す? 私が?


 立ち止まった真央に気づき、振り返る貴博。言い過ぎたかな、と、反省する。これはダメかな、と、思いながら、真央に声をかける。


「さ、事務室に戻ろう」


 貴博が事務室へと足を向けると、真央は横ではなく、後ろをついて来た。

 貴博は、もう口を開かなかった。


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