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石川真央ー4

 面接の日、三月三日。午前中は病院へ行く。

 いつものように、検査をして、医者と話をして、薬をもらい、会計をして午前中が終わる。普段であれば、おにぎりを持ってきていて、このまま会社へ出勤。休憩室でおにぎりを食べて仕事をするのだが、今日は違う。市電に乗って、まっすぐ家に帰る。


 思ったより時間がなかった。冷凍しておいたご飯を電子レンジに突っ込み、その間に着替えをする。持っている衣服の中で一番地味なものに替えるだけだ。と言っても、真央は無難で地味目な服しか持っていない。枚数も多くない。普段は会社の制服で通勤しているのだから。


 電子レンジが真央を呼ぶ。だけど、今はせめて髪だけでも整える。肩を超える長いストレートの髪。母親譲りの、真央が唯一自慢できるものだ。これを真央は自分でカットしている。美容室に行くような余裕はない。なので、髪は美しくても、毛先を見ると、微妙にそろってはいない。前髪もしかりだ。眉の下でそろえた、素人的にそろえた前髪。真央は、ちょっとだけ気になる。そして、はさみを手に取り、「チョキン」と切るつもりが、意外にも「ザクリ」といった。


「あー!」


 もう遅い。いろいろ焦っていたせいでもあるが、斜めに入った。しかもそれなりに。

 真央は涙目になって鏡に向かって前髪を伸ばす。が、そう簡単に伸びるものでもない。それに、それを気にしている時間もない。

 今は、時間と勝負をしているのだ。前髪とではない。

 電子レンジからご飯を取り出す。ふりかけをかける。おかずも味噌汁もない。そんな余裕はない。ご飯を急いで胃袋へ納め、薬をいくつも取り出して口に放り込む。水で流し込んで準備オッケーだ。前髪以外。


 いつものダッフルコートを着込み、いつものリュックを背負い、いつものスニーカーを履いて家を出る。鍵をかけて階段を駆け下り、速足で歩く。安物の時計を見ると、今は十二時半。余裕はなくとも間に合いはするだろう。幸いなのは天気が良かったことだ。


 真央はいつものコースで電停まで出る。いつもとちがうのはそこから海へと向かうこと。この前、下見はした。道に迷うことはない。ほぼ、一本道だ。

 背の高い防波堤の横を歩いて行く。波が防波堤に当たる音が聞こえる。ゆっくりと繰り返される波の音。


 真央は海が好きだ。泳いだことはないけれど。この海に囲まれた函館の街に住んで二十三年。潮風と共に生きてきた。もしかしたら、潮風が真央をここまで生かしてくれていたのかもしれない。潮風に当たると強くなるって両親が言っていたような。


 真央が落ち着いてくるのと同時に、さっきまで慌てていた真央の心臓も、波の音に癒されてきた。真央は手を胸にあててホッとする。何事も余裕をもって行わないと、と反省する。十三時半とか、十四時にしてもらえばよかった。そうすれば前髪もこんなことにはならなかっただろう。今日一番の被害者である前髪に謝る。


 研究センターの玄関に立つ。時計を見ると十二時五十八分。ぴったりだ。秒針が回り、五十九分になる。あと三十秒したら、入ろう。真央は深呼吸を数回繰り返して玄関に入る。そして受付と書かれたガラス窓を軽くノックする。


「はーい」


 と、窓を開けてくれたのは、自分と同じくらいの歳の女性。色使いの良いチェックのシャツにベージュのカーディガンを着ている。お化粧もばっちり。自分とは正反対だな、と、前髪を隠すようになでる。


「あの、今日十三時からの面接にきました。石川真央と申します」

「あ、面接ね、ちょっと待って。課長―! 面接の人がいらしてます」


 部屋の奥で、細身で背の高い男性が立ち上がるのが見える。白髪交じりで五十歳はとうに超えていそうだ。男性は、部屋から出ると玄関までやってくる。


「石川真央さんですね。では、こちらへ」


 と、真央を誘導する。といっても、目の前の事務所に入れられただけだが。


「こちらに座って待っていてください」


 真央は、事務的な机に並ぶパイプ椅子に腰を下ろす。


「失礼します」



 課長と呼ばれた男は、電話をどこかにかけているようだ。


「草薙君、面接の子、来ているからお願いね」


 と言って、受話器を置いた。


「ちょっと待っていてね、今、担当が降りてくるから」


 といって、男は仕事に戻ってしまう。

 真央は放置される。

 この事務所には、課長と、さっきの女の子と、あと、年齢がバラバラそうな男性が三人。皆、パソコンに向かっている。

 どこも事務所は一緒なんだな、と、思いつつ、竹林の方が営業さんや技術者の皆さんが行ったり来たりしてにぎやかだったような。ここにはあまり会話がない。と脳内でつぶやく。


 しばらく待っていると、廊下を歩いてくる音。ペタペタというなんとも変な音。

 ドアが開いて、


「遅くなりました」


 とやってきたのは、三十も過ぎたころだろうか、地味目な男性。作業着の襟の中にカジュアルなシャツの襟が見える。作業着の上には、ボタンを留めていない白衣。そして足元は長靴。なんだかちぐはぐな恰好。

 真央の第一印象は、長靴をはいた化学の先生、だ。たぶん、授業はゆったりとしていてそして淡々と、正直面白くなさそう。

 真央は立ち上がって、


「石川真央です。本日は面接、よろしくお願いいたします」


 と、頭を下げた。


「あ、うん。だけど先に仕事場を見てもらうことにしているんだ。だから、ついて来てもらってもいいかな」


 男性はろくに真央のことを見ようともせず、作業の一つを行うかのように真央に声をかけた。


「はい」

「課長、三十分ほどで戻ります」

 

 男性は、真央を連れて歩き出す。ここは三階建ての建物の一階。玄関から入って事務所。そして、今は、廊下を玄関とは反対方向へ歩いている。電気はついているが薄暗い。研究施設なんて、こんなものか、と真央は思う。

 廊下の壁に目をやると、ポスターサイズの紙が並べてはられている。何が書いてあるかを読むような時間はないが、ところどころ魚の写真が載せられている。それを見るだけでも、水産関係の研究施設なんだな、と思う。なぜなら、写真は食べられる生き物だけだ。水族館にいるようなカラフルな魚の写真は一枚もない。


 真央は男性について、裏口から出る。アスファルトで固められた通路を渡って反対側の大きな平屋へと行き、引き戸を引いて中へ入る。

 中に一歩入ったところで、突然、「ザー」という、水の流れる音が響いてくる。それもたくさん。あちらこちらから。

 男は、振り返り、きょろきょろと見回している真央に声をかける。


「まず、ここで長靴に履き替えてもらえるかな。今日は来客用しかないけど。サイズは?」

「二十三です」

「……」


 男性は考え込んでいる。


「ごめん、今日は二十五でもいい?」

「はい。問題ありません」


 男性は、白い長靴を、なるべくきれいなものを選んで真央の前に置いた。


「靴は、そこの棚に置いておいてね」


 真央は、スニーカーを脱いで長靴をはく。

 履き替えたのを見た男性は説明を始める。


「えっと、求人票にも書いてあったと思うけど、お願いしたい仕事の中心は、生き物の世話になります」


 うん。知ってる。と、真央は言葉にせずうなずく。


「僕らの仕事は研究なんだけど、どういう研究かっていうと、育てた魚を使って実験をしてデータを集めています」

「はい」


 と、頷く。


「僕らは、契約職員さんたちにその魚を育ててほしいんです」


 男性は歩き始めるので、真央はついて行く。


「ちょっと覗いてみてくれる?」


 と、男性は大きな水槽を指さす。

 男性が、水槽脇に設置された台に乗るので、真央も続く。


「わぁ」


 真央は、思わず声を発してしまう。

 そこには、二十センチくらい、もっと大きいか、銀色に輝く魚が何十匹も、何百匹もいて、水槽の中を反時計回りに泳いでいる。

 水族館でみた魚の群れを上から見たらこんな感じか、と、真央は手を伸ばす。その瞬間、魚が一斉に避けるように逃げ、水面をバシャバシャと水の中からたたく。

 男性は、手を額に当て、


「ごめん、魚を脅かすようなことはやめてね。言わなかった僕も悪いけど」

「はい。ごめんなさい」


 真央は頭を下げる。

 しばらく見ていると、魚の群れは何もなかったかのように再び整然と泳ぎ出した。


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