七月-1
7月に入ると、真央はいつも通りに病院へいく。そしていつも通りの検査を行い、医師の診察を受ける。
「石川さん、検査結果としては、いつもと同じで、いいと思うよ」
医師は、モニターを眺めながらそういう。
しかし、真央はその言い方がちょっと気になる。
「えっと、何か悪いところでも?」
「あ、いや、ごめんごめん。ちがう。逆だよ」
「どういうことですか?」
「何かいいことがあったかなって」
「それ、検査結果に表れるんですか?」
「それも違うけど。なんていうかね、石川さんの声がいつもとちがってきてるなって。先月もちょっと思ったけど。今月、確信したよ」
「えっと」
「なんかね、声に抑揚がついて、明るくなったって感じかな。新しい仕事が合っているのかな? それとも、いいことがあった?」
竹林工務店も楽しかった。周りの人はいい人ばっかりだったし。今も人には恵まれているし、魚の世話も楽しい。
真央は、視線を右へ左へと動かした後、
「最近、釣りをしていて、楽しいなって」
「そうかい。釣りを始めたのかい。僕も年に何回かだけだけどやるんだよ。どうだい。釣れるの?」
「はい。一回の釣りで一匹くらいしか釣りませんけど」
「しか?」
「えっと、私の場合、食料確保を兼ねているんです。だから、一匹釣れば充分なんです」
「そうなんだ。でも楽しいんでしょ?」
「はい。釣りを教えてくれた人がいて、一緒に釣りをしてくれるんです。先月なんてですね、なんと五十一センチもあるアイナメを釣ったんですよ!」
「ほうほう、それはすごいね」
真央は、ついつい釣りをしていて楽しかったことを話す。医師はそれを楽しそうに聞いている。しかし、
「こほん」
看護師がわざとらしい咳ばらいをする。
「石川さん、ごめんね。もっと話を聞きたいんだけど、時間がおしてるみたい」
「はい。私もごめんなさい。また来月来ますね」
「うん。釣果を楽しみにしているよ」
真央が診察室から出るときに、
「楽しめることが見つかってよかった」
と、医師のつぶやきが聞こえた。
真央もそうは思う。せっかくだから、楽しめることは楽しみたいと思う。だが、未練につながってしまうのは嫌だな。とも思った。あーいやだ。どうしてこう私はネガティブなんだろうか。いや、そうなってしまったのだろうか。真央は意識を切り替える。さあ、仕事に行こう。魚たちが餌をくれと待っているに違いない。
真央はいつも通り市電に乗って終点である函館造船前で降りる。そして、センターへと向かって歩く。
七月に入ってだいぶ暖かくなってきた。パーカーはまだ手放せないが。
センターに到着して、休憩室に入る。そして、いつものようにおにぎりを取り出す。千里たちはすでに食事を終えているようだ。
「ねえねえ真央ちゃん、今月の花火大会、どうするの?」
千里が聞いてくる。
「真央ちゃん、聞いちゃだめよ。のろけたいだけだから」
と、恵理子が笑いながら口をはさんでくる。
「ぶー。そういうことじゃないのよ」
千里は自分にフォローを入れる。
「千里さんね、付き合いが長いからって、そろそろじゃないかって、毎年こうなの」
「桃ちゃん、なんてこと言うの。いいのよ。私は待つ女。函館の女なのよ」
「それ、どういう意味? わかんないんだけど」
桃香がもっともな突っ込みを入れると、笑いが起こる。
きゃいきゃいと盛り上がる三人を見て、真央は、恋話なんて、いつ以来聞いたことがないのかな。中学生の時には、ませた子が彼氏がどうのこうのと言っていたのを耳に挟んだことがあるけど。その程度だな、と、回想する。でも、みんな楽しそうだな、と、真央も自然と笑みがこぼれる。こんな風に、人の幸せに微笑むことが出来るようになったんだな、と、改めて気づいた。真央は思い切って、
「桃ちゃんも彼氏とですか?」
桃香は真央からそのような質問を受けるとは想像もしていなかったようで、
「え、あ、うん。そうなの」
と、顔を赤らめてうつむく。
それを見た千里は、ここぞとばかり、
「で、どうなの、桃ちゃんはどうなのさ」
と、からかっている。
人妻の恵理子は、ほほに手を当てて、ほほえましそうにその光景を眺めているだけだった。
人の幸せって、他の人も幸せにするんだな。私は同僚にも恵まれたな。真央はそう思った。
後日、午前中に組み込んだ真央のチップ詰め。背中側では貴博が相変わらず細かい作業をしている。
真央は、今日の分は終わり、と、マスクと手袋を外す。午前中に組み込んだことで、眠気と戦うことも、無くなったとは言わないが、地獄とまでは思わなくなった。
さて、真央は、どうしたものかと、そわそわする。手元を見たり貴博を見たり。貴博は、そんな真央に気づかず、淡々と作業を続けている。
貴博が作業にひと段落着いたのか、ピペットを置いた時に、真央は思い切って聞いてみることにする。
「センセ、今月の花火、どうされるんですか?」
ちなみに、両親がいたころは見に行くこともあったが、それ以後は見に行っていない。一緒に見に行く人もいなければ、人の幸せそうな顔を見るのもちょっと辛かったのもある。
「え? 花火?」
貴博は、突然の質問に戸惑う。
「花火って、再来週の?」
「はい。千里さんや桃ちゃんは見に行くんですって」
「見に行くって……」
貴博はちょっと考えて、
「僕は休日出勤したうえで残業するよ」
「え?」
意外な答えに真央は思わず疑問の声を上げる。
「だってさ」
と、貴博は実験室の窓を指さす。そして、
「こんな特等席ないでしょ」
と、つづけた。
「あ」
真央は気づく。実験室は港の方を向いていて、しかもここは三階。遮るものは、窓のガラスだけだ。
「センセ、私も休日出勤して残業したい」
「あのね、休日出勤は別として、残業って言っても、自主だから、残業代が出るわけじゃないよ? それに、ここじゃ屋台もないし、飲み食いもできないしさ、花火を楽しむことが出来ても、お祭りを楽しむのとは違うような気がするんだけど」
「いえ、いいんです。花火、しばらく見てなくて。それに、こんないいところがあるなら、ここから見たいです」
「じゃあさ、日曜日だし、夕方、裏から入っておいでよ。警備員さんに言えば入れてくれると思うから」
「はいっ」
真央は喜んで実験室を後にした。




