吾輩が、魔術でこれを生成したのか?
召喚の間で待っていると、軋む音を立てながら扉が開いた。
「るし・ふぁー?」
不安そうな声で言って、邪神は小走りでこちらへとやってきた。
吾輩の服の袖を指先で摘まみ、キョロキョロと周りへ目を向けている。
「……1人で来られましたか?」
「うん。1人で来てって、ゲオルに言われたから。お城の奥の方にあるから、薄暗くて少し怖かったの」
そう。召喚の間は魔王城の最奥にある。加えて、ゲオルが幻惑魔術をかけているから、ここで何が起ころうとも、外部からは悟られない。
「邪神様。邪神様をここにお呼びしたのは、お頼みしたいことがあったからです」
頭3つ分小さな少女を見下ろしつつ、真摯な声で続ける。
「吾輩の名を、考え直していただけないでしょうか?」
瞬間、邪神は分かりやすく不機嫌になった。
「むー、何度も言ってるの。かわいくていい名前だと思うの」
「何度も申し上げていますが、魔王の名前は可愛らしいものではなく、畏怖の対象となるべきものだと思うのです」
「でも、サタンとか、ベルフェゴールって、かわいくないからイヤなの」
何度も繰り返してきた問答。いつもなら、ここで引き下がるのだが……今回ばかりは、そうもいかない。
「邪神様」
低い声で呼ぶと、邪神はピクリと肩を震わせた。兎のような赤い瞳で、吾輩の顔を見上げてくる。
「このようなこと、本当はしたくないのですが……痛い目に合いたくなければ、吾輩のお願いを聞いていただけないでしょうか?」
「……るし・ふぁー?」
袖を掴んでくる小さな手を、吾輩は力任せに振り払った。
5メルほど距離を取り、魔力のこもった手のひらを邪神へ向ける。
『万雷の槍』
吾輩の使用できる中で最弱の魔術だ。
数百の雷で敵を貫く魔術だが、吾輩とて邪神を痛めつけたいわけではない。
軽く痺れる程度に威力を抑えて発動した……はずだった。
「い、いたいのっ!?」
何か棒状のものが、大量に邪神に向けて射出されていた。
身を屈める邪神に当たったそれらは、黒曜石の床をこちらまで転がってきた。
指先で拾い上げる。
……なんだ、これは?
木の枝?
軽く力を込めると、容易に折れた。
内部には何か黒いものが詰まっていて……鼻を近付けてみると、ほのかに甘い香りがする。
「わっ! これ、おいしい!」
弾んだ声が、召喚の間に響いた。
目を向けると、邪神はしゃがんだ姿勢のまま、木の枝を食べていた。
……いや、木の枝ではないのか?
吾輩も手に持っていたそれに齧り付いてみる。
甘い。
これは……焼き菓子? だが――
混乱しつつ、自分の手のひらを見つめる。
吾輩が、魔術でこれを生成したのか?
まさか。そんな馬鹿な。
急速に毒気が抜けそうになるのを感じて、吾輩は慌てて頭を振った。
何が起こったのか分からないが、この程度のことで動揺してはいけない。
再度、邪神へ手のひらを向ける。
邪神が何かをしたのか、はたまた召喚の間だからこそ魔力に変異でも起こったのか――。
原因は分からないが、ただの攻撃魔術だと、正常に発動しないかもしれない。別系統の魔術がいいだろう。
『三頭犬召喚』
異界の怪物を一時的に現界させる魔術だ。
三頭犬は3つの頭を持つ犬型の怪物。厳つい見た目をしているので、怖がって吾輩の言うことを聞くだろう……という魂胆だったのだが。
なぜか、そこには片手で楽に抱え上げられるほどの小犬がいた。
「キャンッ!!」
尻尾をフリフリさせ、嬉しそうに邪神の元へと走っていく。
「きゃっ!? くすぐったい!!」
小犬に頬を舐められて、邪神は嬉しそうに笑っている。
……あの小犬はなんだ。
あのような存在と契約を交わした記憶はないが……どこから召喚されたのだ?
意味が分からない。
膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、邪神に目を向ける。
やはり、単に子犬と戯れているだけで、何かの術を使っているようには見えないが。
……まさか。
ふと、嫌な想像が頭を過ぎった。
……ひょっとして、『るし・ふぁー』というふざけた名を付けられてしまったせいで、吾輩の力もふざけたものになってしまったのではないか?
雷が焼き菓子に、三頭犬が小犬に――全ての魔術が、そういうふうに変じてしまっているとしたら?
……吾輩は再び、震える手のひらを持ち上げた。
使用するのは、吾輩が持つ最上の魔術。
『漆黒の業焔』
対象を焼き尽くすまで決して消えない漆黒の焔を生み出す魔術だ。
もちろん、邪神に向けることはしない。
邪神の周りに数多転がっている焼き菓子を対象に発動する。
すると――
焼き菓子の傍に、赤色の花が咲いた。
青、黄、白、桃。
色とりどりの花が怒涛の勢いで咲き乱れ、みるみるうちに漆黒の床を塗り替えていく。
数拍もしないうちに、召喚の間は花々に満たされてしまった。
どこからやって来たのか、黄色の蝶々が花の間をひらひらと飛んでいる。
ガクリ、と。
吾輩は花畑の上に崩折れた。
想像は確信へと変わっていた。
『るし・ふぁー』のせいで、吾輩の力は完全に変じてしまったらしい。
「るし・ふぁー、大丈夫?」
いつの間にか、すぐそばに邪神が座っていた。
左手に子犬を抱え、右手には棒付き飴を握っている。
どこからそんなものを取り出したのかと思い、視線を巡らせてみると……何のことはない。そこかしこに生えている。
どうやら吾輩の咲かせた花はただの花ではなく、飴細工でできているようだった。
「甘いものを食べたら、元気が出るの!」
邪神が笑顔で飴を差し出してくるので、吾輩は無言で受け取った。
そのままボーッと飴を眺めていると、邪神が吾輩の腕を両手で掴み、飴を口の中に突っ込ませた。
「……甘い」
蕩けるような優しさが、吾輩の脳天を貫いた。
ペロペロと飴を舐めながら、ヒラヒラと飛ぶ蝶々を眺める。
ここは室内のはずなのだが、どこかから爽やかな風が吹いてくる。
それどころか、小鳥のさえずりや川のせせらぎまで、聞こえてくる気がする。
完全に意味不明だが、もはやそんなことはどうでもいい気分だった。
――
邪神様と子犬、吾輩の3人で日向ぼっこをしていると、遠くの方から扉の開く音が聞こえた。
「……るし・ふぁー様、これはいったい?」
困惑した表情で、ゲオルが花畑の中を歩いてくる。
「おー、いいところに来たなー」
身体を起こした吾輩は、すぐ隣をぽんぽんと手のひらで叩いた。
「まあ、座れ」
吾輩に言われた通りに、ゲオルは居心地悪そうに腰を下ろした。
「1刻お待ちしても出てこられるご様子が無いので、恐れながら見に来たのですが……」
「そうか、ありがとうなー。吾輩のことを心配してくれて」
頭を撫でてやると、ゲオルは固い表情で吾輩から距離を取った。
「あ、あなたは本当に、るし・ふぁー様なのですか?」
震える声で言ったゲオルは、ハッと何かに気付いたような顔になった。
吾輩の隣で、子犬を抱きしめながら気持ちよさそうに眠っている邪神様へと、鋭い視線を向ける。
「まさかッ……お前が、るし・ふぁー様に何かしたのかッ!!」
ゲオルを中心として、赤い闘気が波として広がった。
木々が揺れ、小鳥が飛び去り、空の雲が吹き飛ばされる。
「わっ!? な、なにごとなの!!」
ガバッと起き上がった邪神様に、ゲオルが怒りの言葉を――
「もがッ!?」
言い放つ直前、吾輩は空から降ってきた綿菓子をゲオルの口に突っ込んだ。
「ひとまずこれでも食べて、落ち着け」
もぐもぐと口を動かすたびに、ゲオルを覆っていた闘気が薄くなっていく。
「……るし・ふぁー様。なんだか私、気持ちが温かくなってきた気がします」
綿菓子を全て食べ終えたゲオルは、恍惚とした顔でそう言った。
「うむ。落ち着いてきたようだな」
吾輩がうんうんと頷いていると、邪神様がティーカップをゲオルに手渡した。
「これを飲んだら、さっぱりしていい感じなの!」
「これを……私に?」
ゲオルは感激したように、両手でティーカップを受け取った。
ズズッと中身を啜って、ほわあと吐息を漏らす。
「ああ……身体の隅々まで行き渡るようです」
「気に入ってくれて嬉しいの!」
「はい。邪神様、ありがとうございます」
さっきまでの形相が嘘かのように、ゲオルはにっこりと笑顔を浮かべている。
――それから吾輩たち3人と1匹で、キャッキャウフフとお菓子を食べたり、輪になって踊ったりしていると、いつしか空が薄暗くなってきた。
「そろそろ、お家に帰らないとな」
吾輩が苦渋の面持ちで言うと、各々残念そうに応えた。
「そうですね。もう暗くなりそうですし」
「むー、リリスが心配するから、わたしも帰るの」
「キャウン……」
また明日遊ぼうと固い約束をして、今日のところは解散と相成った。
――
執務室へ向かっている途上。
廊下の窓から見える中庭は、夕焼けに赤く染まっている。
どうやら、吾輩たちは召喚の間で5刻ほど過ごしていたらしい。
「……ゲオルよ」
「はい」
「お前も、正気に戻ったか?」
「……はい」
吾輩は足を止め、ゲオルと真剣な顔で向き合った。
「どうやら、あれが吾輩の新しい力のようだ。……なかなか面白い力だと思うのだが、ゲオルであれば活かすことは可能か?」
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