ゲオルよ。お前は、いい部下だ。
吾輩は1ヶ月もの間、寝込んでいたらしい。
吾輩とゲオル、リリスの3人で廊下を歩いていると、大そう心配してくれていた部下たちが、目に涙を浮かべながら話しかけてくる。
1人に対応していると、騒ぎを聞きつけた別の部下たちまで集まってくる。気持ちはもちろん嬉しいが……これではキリがない。
そういうわけで、ゲオルに幻惑魔術をかけてもらった。
これで、幹部以下の者には、吾輩たちの姿を認識することができない。
部下たちにぶつからないよう注意しながら廊下を歩いていくと、食堂にたどり着いた。
邪神様は……。
「邪神様、こちらはどうですか? ヤモリの塩焼きです! カリッとしてて美味しいですよ!」
右隣に座る魔女が、黒い塊を邪神様に渡そうとしている。
それを邪魔するように、左隣の夢魔が、白く輝く謎の物体を差し出した。
「そんな不気味なものより、こちらを召し上がってください! 人間の精から作った団子です。元気いっぱいになりますよ!」
「ちょっと! 邪神様にそんな汚らわしいものを食べさせようとしないでよ!」
嫌悪感丸出しで言ったのは、周りに立っていた別の魔女だった。
それに応えて、煽情的な衣装をまとった夢魔が、流し目を向ける。
「汚らわしいとは聞き捨てられませんねぇ……これは、私たちが手ずから集めてきた新鮮なものですよぉ? 陰気臭い部屋の隅っこから取ってきた、そっちの黒いものの方が、よっぽど危なそうですけどぉ?」
「うん? 聞き間違えかな? 私たちの部屋のことを……陰気臭い、と言ったように聞こえたんだけど?」
「あっ、ごめんなさい、間違えましたぁ……お部屋ではなく、魔女さんたち本人が陰気臭いって言いたかったんですよぉ」
魔女と夢魔の軍団に挟まれて、邪神様はおどおどしていた。
「け、けんかはダメ! みんな落ち着くの!」
――そこまで見た吾輩は、柱の陰に頭を引っ込めた。
そして――露骨に目を逸らしているリリスを見据え、ひそひそ声で話しかける。
「何度も注意しているにも関わらず、やはり魔女たちとは仲良くできないのだな?」
「す、すみません」
「いや、それはこの際よいのだ。むしろ、相変わらずで安心感を覚えたほどだからな。……ところで、やけに邪神様と仲が良さそうだが?」
リリスは腰の翼をパタパタさせ、挙動不審に目を動かしている。
「――全くです」
割り込んできたのは、不快げな表情を浮かべるゲオルだった。
「私が魔王城に帰還したのは10日ほど前なのですが、その時点では既にこのような状態でした。いくら邪神様といえど、魔王るし・ふぁー様に害を成した輩です……仲良くするなど、言語道断!」
「で、でも……邪神様は悪い子じゃないですし。美味しいものや縫いぐるみをあげたら、にこって笑って『ありがとうっ!』って言ってくれるんですよ? もう、可愛くて可愛くて……あっという間に、みんなが虜になってしまって……」
リリスは、うっとりと、艶のある表情を浮かべる。
その顔を間近で見たゲオルは、頬をほんのりと赤く染めた。ブンブンと頭を振って、吾輩に迫ってくる。
「魔王るし・ふぁー様! そもそも、あれは本当に邪神様なのですか? 言い伝えによれば、邪神様は威風堂々たる男性の御姿をしていらっしゃったはずですが……」
「……ああ。それについては吾輩が保証しよう。自らの手で呼んだのだからな」
邪神召喚の儀式。
この世界を作った神々とて一枚岩ではない。人類を徹底的に絶望させることを望む神もいれば、同情的な神もいる。
魔王に嬲られる人類を哀れに思った神が『勇者』を授けた一方、それを良しとしない神は魔王に『名』を授けることにした。
『名』とは、単なる呼称ではない。
強力な加護であり、力を分け与えることを意味する。
勇者が召喚された場合に限り、魔王は邪神様の御力を貸していただくことができるのだ。
生まれたその時から、吾輩はそのことを知っていた。そして、如何にして邪神様をお呼びすればいいかも知っていた。
勇者が召喚されたとの報告を受けた吾輩は、満を持して邪神召喚の儀式を執り行ったわけだが――
「邪神様がおっしゃられることには、200年ほど前に代替わりなされたらしい。前魔王の時に顕現されたのは、お父様だと」
吾輩はため息をつきながら、あの時のことを思い出していた。
紫煙とともに、祭壇の上に出現した謎の少女。
「初めての大仕事! 張り切っていくの!」なんておっしゃるから、ひとまず『名』を付けてくれるようにお願いしたのだが……。
歯を食いしばり、吾輩は邪神様の方を見やった。
邪神様が宥めたようで、先ほどまでの険悪な空気は霧散している。
夢魔も魔女も、少し離れた場所にいる首無騎士や黒耳長人も、みな笑顔で邪神様のことを見守っている。
「――魔王るし・ふぁー様ッ!!」
突然ゲオルが叫んだので、吾輩は思わず身体を震わせてしまった。
「ど、どうした?」
ゲオルは吾輩の手を両手でハシッと握り、息遣いの感じられるほどの距離に顔面を近付けてきた。
「私は、私だけはッ、魔王るし・ふぁー様に絶対なる忠誠を誓っておりますッ!! 邪神様になびいた他の者たちなど、気になさらないでください!!」
……どうやら、チヤホヤされている邪神様のことを、吾輩が羨んでいると勘違いしたらしい。
吾輩は身をのけ反らせながら、周囲へ視線を向けた。
……せっかくの幻惑魔術も、大声を出したら意味がない。
吾輩たちの姿は、食堂にいる部下たちの目に、完全に捉えられていた。
「魔王るし・ふぁー様だ!?」「お目覚めになっていらしたのね!!」「魔王るし・ふぁー様とゲオル様……やっぱり、お似合いだわ……」そんな声が、所々から聞こえてくる。
当然、その騒ぎは邪神様の耳にも届いていた。
赤い瞳と目が合った。
「るし・ふぁー!!」
椅子から立ち上がって、トテテと食堂を駆けてくる。
「よかった! ずっと心配してたの!」
そのまま抱き着いてきそうな勢いだったが……邪神様の前に立ちはだかる者がいた。
「魔王るし・ふぁー様に、指1本たりとも触れさせないぞ!!」
ゲオルだった。
邪神様は戸惑った様子で、ゲオルの顔を見上げている。
「な、なんでなの?」
「邪神様だか何だか知らないが、私が忠誠を誓っているのは魔王るし・ふぁー様ただ1人!! お前のような危険な存在を、近付けるわけにはいかない!!」
「わたし、何もしないもんっ!!」
「魔王るし・ふぁー様が1ヶ月も昏倒されていたのは、誰のせいだと思っている!! お前のせいだろう!!」
赤色の闘気を出しながら、邪神様のことを怒鳴りつける。
「……お、おい」
吾輩がゲオルを窘めようとした時だった。
ぽろり。
宝石のような涙が、邪神様の瞳からこぼれ落ちた。
「サイテー」「ゲオル様ってほんとダメよね……」「邪神様、かわいそう」そんな声が、食堂中から沸き起こる。
「わ、私はただ……」
ゲオルは分かりやすく動揺していた。
ゲオルは頭の堅い男だが、それは誠実さの裏返し。規則は必ず守るし、任務以外で嘘を吐くこともない。城の清掃を隠れてしていることも、吾輩は知っている。
だからこそ、見た目は少女の邪神様を泣かせてしまったことに、大きな衝撃を受けているのだろう。
「ゲオル」
肩に手を置いて、ゲオルを後ろに下がらせる。
「部下の非礼をお許しください」
邪神様の正面で吾輩はひざまずいた。
見た目はアレだが、この少女はいちおう邪神様だ。
吾輩など足元にも及ばない力を持っている……はず。実際、吾輩は何をされたかも分からないまま、1ヶ月も昏倒させられたわけだしな。
見た目はアレだが、腐っても邪神様。
畏れをもって接するべきお方だ。
そう自分に言い聞かせながら、吾輩は頭を垂れた。
食堂には、沈黙が満ちている。
どうやら、みなも気付いたようだ。邪神様はか弱き少女などではなく、魔王たる吾輩が頭を垂れる存在なのだと。
沙汰を待つ吾輩の頭に……小さな手のひらが乗った。
「ちゃんと目が覚めて、よかったの」
心底からほっとしたような声音。
温かい指先で吾輩の額に触れながら、邪神様はその場にしゃがみこんだ。
赤い瞳で、吾輩の目をのぞき込む。
「おでこ、まだ痛い?」
「……いえ、もう痛みはありません」
「他はどう? お腹とか、痛くない?」
「はい。不調な部分はどこにもありません」
「よかったぁ……」
ほっと息をついて、邪神様はにこりと笑顔を浮かべた。
それはまるで、そこらにいる普通の少女のように見えて――
「邪神様」
掻き消えそうになる敬意を寄せ集めながら、吾輩は真面目な表情で続けた。
「大変失礼なことだと承知しているのですが、どうしても、邪神様にお願いしたいことがあるのです」
邪神様は、きょとんとアホ丸出し……慈愛のこもった顔をした。
「わたしにお願い?」
「はい。……邪神様からいただいた名についてなのですが、別の名に変えていただけないかと……」
「えっ」
邪神様は大きなお目々を見開いて、こてんと首を傾げた。
「……わたしの付けた名前、イヤだった?」
「いえ! 邪神様からいただいた名を嫌がることなどあり得ません! 素晴らしい名を付けていただき、大変感謝しております!」
視界の端に、頭を小脇に抱える首無騎士が見えた。顔がニヤリと笑っている。
……くそッ。なんたる屈辱だ。
怒りを歯の奥で噛み締めつつ、愛想笑いを顔に張り付けていると――
「ほめてもらえて嬉しいの! るし・ふぁーが呼んでくれるまで、ずっとヒマだったから、がんばって考えてた名前なの!」
キラキラした心の底からの笑顔で、邪神様はそう言った。
周囲から感嘆のため息が漏れ聞こえる。
見ると、夢魔や魔女たちが、揃いも揃ってうっとりとした表情を浮かべている。
それを微妙な気持ちで見やってから……吾輩は深く頷いた。
「邪神様がご深慮された名だからこそ、これほど素晴らしいものになったのですね。そのような名をいただけるなんて、身に余る光栄でございますなぁ」
歯の浮くような台詞を、アホな邪神はにこにこしながら聞いている。
「ですが――」
吾輩は悲しみに満ちた表情を浮かべて、後方――そこに立つゲオルを指差した。
「吾輩の部下が、別の名がよいと言うのです」
「なっ!?」という声が聞こえるとともに、女性陣の鋭い視線が1点に集まった。
……ゲオルよ。お前は、いい部下だ。
胸を熱くしながら、邪神の赤い瞳を見据える。
「今の名も素晴らしいと思いますが……部下が言うには、威厳が足りないと。言われてみればたしかに、人類どもが恐れる名としては、少々方向が違うかもしれないと、吾輩も愚考いたしまして……」
「んー? ぐこう?」
「……もっと、聞いた者が恐怖に慄くような名がいいのではないかと、部下に進言されまして」
「こわい名前がいいってこと?」
「はい」
吾輩が頷くと、邪神はちょっぴり不満そうな顔をした。
「かわいいのに……」
「吾輩もそう思います。ですが、それは魔王の名に相応しくない!! ……と部下に進言されたのです」
吾輩は頬を引き攣らせながら、媚びるような声で言った。
「……別の名に、変えていただけないでしょうか?」
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