第84話『Spend the night with you』
波琉が出て行った途端に静まり返った無音の空間が、部屋をやたらと広く感じさせた。
ソファーに目をやると、ふわっと笑うかれんの姿が浮かぶような気がする。
「やべぇ……俺、マジで禁断症状が出てるのかも」
健斗はまた大きなため息をつきながら波琉が用意してくれたオードブルをたいらげた。
そして酒の代わりにコーヒーを淹れ、カップを持ったまま書斎に向かう。
整然としたこの家の雰囲気とはまるで異って、書類が幾重にも積み重なる、雑然としたデスクを前に健斗はドカッと 座り、作業を始める。
それからはデスクに向かったままひたすらに没頭し、時間の経過を忘れるほど集中して作業した。
頭の奥がじんじんするも、普段の身の置き所のない業務に比べれば手応えもあり、自らを取り戻せるようなその考察の数々に、充分な満足度を感じることが出来た。
「よし! なんとかまとまったな」
今日の目標点に達したことを確認した健斗は、時計を見上げる。
時間の経過を忘れるほど集中していたことに驚くとともに、いい仕事ができた達成感を得られた。
健斗はデスクチェアーのリクライニングを倒し、大きく伸びをする。
仕事が効率的に進んだ爽快感もあったが、何より今日は久しぶりにあの場所に出向くことができたことと、懐かしい子供の頃の思い出を取り戻せたことへの喜びが大きかった。
スマホが振動してメッセージが届いたのを見て、波琉が言っていたことを思い出す。
「そういやぁ、賄いを届けてくれるって言ってたっけ? ずいぶん遅いな。店が忙しかったのかもな」
メッセージを開く。
「なに? 〝今から食事を持っていくので玄関の前で正座してて待っててください〟だと?! ふざけた野郎だ、マジで一回締め上げてやんなきゃな!」
そう言いながらも、健斗は軽い足取りで書斎から廊下を抜け、リビングを横切り、玄関へ向かった。
上がり口で待っていると、ほどなくしてインターホンが鳴る。
玄関ドアのサイドのすりガラスに映る白っぽいシルエットに、健斗は不審感を抱きながら首をひねった。
「おかしいな……波琉は確か、黒っぽいシャツだった筈だが……着替えたりするか?」
近付いたシルエットが女性に見えて、今度はたじろぐ。
「ま、まさか……ホントにレイラをよこしてないだろうな?! もしそうならマジで許さねえ」
そう呟きながら、恐る恐るドアを開ける。
白いスーツ姿の女性がハラリと髪をかき上げるように健斗を見上げた。
その瞬間、健斗は声を失う。
「健斗……」
「かれん……」
ようやくその名を口にした健斗の前で、かれんは大きな瞳を潤ませ、今にも泣きそうな 表情を押さえるように口許だけで笑顔を見せた。
「健斗、お待たせ。お届けものを……」
健斗は何も言わず彼女の手を掴むと、サッとドアの内側に彼女を引き込み、その身体を強く抱きしめた。
「かれん……どんなに会いたかったか……」
「私もよ、健斗」
二人は見つめあって、微笑む。
健斗はかれんの肩を抱いたまま廊下を進み、二人並んでダイニングまで歩いていった。
「一体どうして?」
「波琉くんがね、連絡くれたの。〝どうせ、晩ご飯もロクに食べてないんでしょう?〟って。それで 〝賄いを作りすぎたから、食べにきませんか〟って」
「そう……」
「仕事でだいぶ遅くなるって言ったんだけど、それでも構わないから来てって言ってくれたから、店へ向かったの。そしたらね、『RUDE Bar』の前に波琉くんが立ってて、〝お使いを頼まれてもらえませんか〟って、これを渡してくれて」
かれんは紙袋を持ち上げる。
「アイツ……」
袋から取り出した皿に乗った料理を見て、二人は目を合わせる。
「これ……」
「ああ。波琉の特製シーフードピラフだな」
二人は向かい合って食べ始める。
「やっぱり美味しいね。波琉くんがね、食器はここに回収に来るから、返しに来なくていいって」
「そんなことまで……ホントにアイツは抜け目がないというか」
健斗は自分が吐いた弱音を告げ口されていないか少し心配になる。
「あ……波琉、なんか言ってた?」
「ああ、この食器の話をしてる時にね、私が返しにこようかって言ったら波琉くん、〝今日かれんさんは店には入ってきちゃダメ〟って言われて……どうしてって聞いたら、〝邪気で溢れてるから〟って」
「え? あ……」
きっとあの二人が来ているに違いないと健斗は推察する。
「ふふふ。まぁ、冗談だって笑ってたけどね。さっきこのアパートで波琉くんと偶然会ったのよね?〝自分も久しぶりに会ったけど、かれんさんも健斗さんとは随分会えてないみたいだから、今夜はゆっくり話してきてください〟って、送り出してくれたの」
「なんだよ……アイツは俺らの保護者か?」
「ふふっ。ホントに気が利く人よね。学生さんだってこと、つい忘れちゃいそう」
「ま、やっぱアイツは仙人だってことだな」
「あはは。そうね」
朗らかに笑うかれんを見ながら、心が温まっていくのを感じる。
「今日は論文のためにこっちに戻ってきたのね」
「ああ。まだ仕上げの段階まではいってないけど、集中して出来たから今日中にやろうと思ってたことは全て片付いたよ」
「そっか、よかった。でも、会社でも会議続きなのに、まだ論文もやらなきゃならないなんて……ホント大変よね」
「かれんの方こそ、相変わらず忙しいんだろう? 波琉も言ってたよ。『RUDE Bar』にもほとんど来てないって」
「まあ、季節の変わり目だから、イベントも目白押しだしね。『ファビュラス』としては、嬉しい悲鳴ってとこよ」
「なるほどね。でもよかった、元気そうで」
かれんは視線を下げながら頷いた。
「このシーフードピラフ……あの山の上のブライダルフェアで私が体調を崩した時に、波琉くんが作ってくれたのよね。あのときと同じ、優しい味だわ」
健斗はかれんをじっと見つめた。
「そうだな。あの時は、俺たちがこんな風になるなんて想像できなかった……」
「うん。不思議よね、人の気持ちって。でも、きっとあそこから私達の距離は着実に縮まったんだと思うわ」
健斗は頷きながらも、心の中で首を振る。
本当はもっと前から……そう、あの雨の日にかれんを助けたあの瞬間から、運命と共に心が動き始めていたのかもしれないと、今は思う。
「ごちそうさま。あ、健斗、その食器、私が洗うね」
そういいながら立ち上がったかれんに、健斗はサッと腕を伸ばし、その手を掴んだ。
「かれん。今夜は離れたくない。このまま帰さなくてもいい?」
かれんはふわっと表情を緩めて、微笑みながら静かに頷いた。
健斗は手をとったまま立ち上がると、かれんの側へ回り込み、その肩をぐっと引き寄せた。
第84話『Spend the night with you』- 終 -




