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『記憶の森』 Leave The Forest ~失われた記憶と奇跡の始まり~  作者: 彩川カオルコ


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第80話『追憶の地』

『JFMホールディングス』のCEOに就任してからというもの、日々分刻(ふんきざ)みのありとあらゆる行程(こうてい)をこなし、健斗は怒濤(どとう)のスケジュールの中で論文も平行させながら、余裕のない日々を送っていた。

今日は会長()も同席の自社会合があり、それを終えた後は会長の配慮で少し早めの退社を許された。

まだ陽が高いうちに会社を出られることなど(しば)らくなかった健斗は、少し軽くなった足取りで『JFMホールディングス』の玄関ロビーを突っ切る。

表へ出ると社用車がエントランスに停まっていて、その(かたわ)らに立つ運転手の栗山が笑顔で健斗を出迎えてくれた。


「今日は、どちらにお戻りになりますか?」


このところ、父や栗山の(すす)めもあり、帰宅が遅くなる時は会社で保有しているホテルに宿泊することもままあったが、今日はいつもよりだいぶん早いので自宅に戻ることにした。


「ああ。今日は自宅に戻ります」


「かしこまりました」



走り出した社用車の後部座席にゆったり座る。

久しぶりに早い時間に自宅に帰れることに、気持ちが(はや)るのを感じた。

いつもの国道に差し掛かると健斗は顔をあげて窓の外に目をやる。

馴染みのあるその風景でさえ違って見えることに驚きながら、繁忙(はんぼう)の日々がいかに精神的なダメージを(こうむ)るものだと実感する。

はたと、一つの思いがよぎった。


「あの……栗山さん、ちょっと寄り道したいのですが……」


国道から()れて山の手に向かうよう道案内をしながら、とある場所に車を停めてもらう。


「ここで少し待っててもらえますか?」


そう言って車から降りた健斗は、辺りを愛でるように見回しながら少し先にあるガードレールまで歩いて行って、ゆっくりと腰を下ろした。


ぐーんと伸びをして息を吐ききると、そこから通りの向こう側にそびえる大きな屋敷に目を向ける。

眩しそうに眺めながら深呼吸した。


「やっと来れたな……いつぶりだろう?」


ここにはよく一人で来ていた。

何をするでもなく、ただ思い出の中に身を置くだけの時間。

今もこうしていると、少年だった日々の思いが一気に押し寄せてくる。

ふと、この〝信心深いルーティン〟が何かに似ているなと頭によぎった。


「この感じ……ああ、そうか。かれんがいつも願掛けでカバンに着けている〝三連星のキーチェーン〟と同じようなもんだよな」


彼女の笑顔がフワッと頭に浮かんで、心がホッとほぐれていくのを感じる。

さっき車に乗り込んだとき、携帯にかれんからのメッセージがないか画面を確認してみたが来てはいなかった。

健斗の現状を把握している彼女からは、約束の時間以外は何かよほどのことがない限りは連絡は入らない。

決して邪魔することなく最善のタイミングで接してくれる彼女に感謝しつつも、自分はいつも彼女に連絡したい気持ちを抑えるのに手を焼いていることを情けなく思う。


「まぁ、ビジネスにおいてはかれんの方が先輩だからな……にしても、俺はかれんに会いたくてたまらないのに……ガキっぽいのは俺だけか? 全く、自制心の高いオンナだよな」


誰も聞いていないことをいいことに、健斗は空に向かって呟く。


フッと微笑んで目を閉じた健斗は、心地よい風を感じながら再び目を開き、そこに現れた建物を見つめながら追憶(ついおく)に思いを()せた。


この場所には何度となく通っている。

中学高校の時は自転車で、それ以降は自分の運転する車で来ては、いつもこうしてこのガードレールに腰かけ、その大きな家を眺めていた。


今もこうしていると少年だった日々の思いが一気に押し寄せて、健斗を幸せだった時代へといざなってくれる。

何か問題にぶち当たった時や何かの選択に迷った時、そして何かが上手くいった時も必ずここに来て、遠くに見える大きな屋敷の中の一室の窓を眺めていた。


まだ幼い頃、あの大きな門扉にぶら下がって父に叱られた記憶に頬が(ゆる)む。

そんな時は必ず、あの家のおばさんが優しく(かば)ってくれた。

家族ぐるみで旅行に出掛けることも多く、特に曾祖父(そうそふ)の持ち物である藤田家の別荘には、二家族の子供同士で夏休みの間の二週間を過ごすことが、毎年の恒例行事だった。

一人っ子の健斗にとって、親友との時間はかけがえのないもので、加えて自分に妹もできたような喜びの中で、朝から晩まで大自然を満喫しながら三人で成長を重ねていった。


その愛しい日々を思い出しているうちは幸福感に満たされる。

しかしその記憶は、とあるポイントに到達すると無情に切断され、そこからはまるで急降下するように恐怖と悔恨(かいこん)の念がマグマのように沸き上がり健斗に襲いかかる。


そのせいで健斗は、その家に近付けなくなっていた。

その門の前に立つことも、インターホンに触れることも一切出来ない。

悲しみに心がえぐり取られそうになって息が出来なくなり、逃げるように走り去ったことも何度もあった。

その境界線がこのガードレールだと気付いてからもう十年以上になる。


大人になってからも、その胸が押し潰されそうな感覚が近付くと心に(ふた)をして、すぐに腰を上げるようにしてきた。


息を大きくつきながら、健斗はガードレールから立ち上がった。

以前よりもずっと心が軽くなっていることに気付いて、ホッと笑みがこぼれる。



車に戻ろうと振り返ると、運転席に居たはずの栗山がこっちに向かって歩き始めていた。


「あ……あの、健斗さん……」


わざわざ車から降りてきた栗山は、少し心配そうな表情で健斗を覗き込む。


「あ……すみません、お待たせしてしまって」

そう言って健斗が頭を下げると、栗山は大きなアクションで首を振る。


「いえ、そんなことは全然構わないんですが……大丈夫ですか?」


「え? ええ、大丈夫です」


「ああ……なら、いいんです。お邪魔してすみません」


そう言って引き下がる栗山を健斗は呼び止めた。


「栗山さん、僕も戻ります」



栗山はいつもの笑顔で後部座席のドアを開け、丁寧に健斗を中に促す。


「では、出しますね」


走り出した窓から、健斗はもう一度名残惜(なごりお)しげに屋敷に目をやる。

自分の車で来ればいいものを、わざわざ運転手の手を(わずら)わせるような衝動的な行動をしてしまったことに、自分がいかに余裕のない状態だったのかと改めて思い知らされた。

それでも心が晴れやかなのは、早い帰宅のお陰などではなく、先日のパーティーでの東雲(しののめ)会長と真正面で対話できたことが大きな要因だと思った。

あの苦しかった年月に一筋の光が見えたような、新たな希望を実感する。

近い将来、あの一室で過去と向き合うことが出来るかもしれないとさえ思えた健斗は、心がほぐれていくのを感じた。


第80話『追憶の地』- 終 -

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