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第79話『Made a commitment.』

ある朝、健斗は大きなあくびをしながら自宅であるノスタルジーな雰囲気を(かも)すアパートメントから出てきた。

仕立ての良いイタリア製のスーツにはミスマッチな外観を背景に、またもやミスマッチな運転手が出迎える社用車にたどり着く。


「栗山さん、おはようございます」


「おはようございます。CEO、そんな大あくびで……また徹夜だったんですか?」


運転手の栗山がドアを開けて健斗を車中に促す。


「いえ。二時間ほど眠りましたよ」


「そりゃまた睡眠不足だけじゃなく周期も悪いですよ! ちゃんと眠らないと、判断力も落ちますし仕事効率が悪くなりますよ!」


「確かにそうですね。今朝はシャワーで立ったまま寝そうになりましたし、歯ブラシに洗顔フォームをつけてしまって……まぁビックリして目が覚めましたけど」


栗山は首をすくめる。

「おや……そりゃ思いの(ほか)、重症ですね。もしもお困りでしたら会長に何か口添えしましょうか?」


「いえ、もうあと少しで〝御披露目(おひろめ)という名目(めいもく)会食(かいしょく)ラッシュ〟も終わると、父に聞いていますから」


「そうですか。ではCEO、当面は睡眠を意識するよう心がけてください。睡眠の質を上げることがビジネスの質も上げることになるということを念頭に置いてくださいね。就任したばかりのCEOが倒れたなんてことになったら……」


「栗山さん、気を付けますよ。いつもありがとうございます」


「いえ、私は……」

そう言って運転手はハンドルを切った。

父とさほど変わらない年齢で身なりもきっちりしている栗山は、もともとは父の専属運転手だった。


「CEO、十二時から|わが社《JFMホールディングス》の会長も(藤田公彦)も同席で『矢神ホールディングス』との会食がありますが……それまでにビデオ会議が三本入っています」


「ええ、把握してます。各社の下調べについては、先日栗山さんが下さった資料をもとに予習は出来てます。いつも本当に助かってるんです、秘書のようなことまでして頂いて」


バックミラーに映った栗山の顔がほころんだ。

「そうですか! CEOのお役に立ててよかった」


「ありがとうございます。あの……栗山さん、僕のことは〝CEO〟じゃなくて、以前のように名前で呼んでもらえませんか? なんだかしっくり来なくて……」


ミラー越しに目が合った栗山が眉を上げた。


「しかし……折角CEOになられたんですから……」


「いや正直、馴染めなくて……自分のことのように思えないんですよ。だからせめて栗山さんには、普通に呼んでもらえたらありがたいなって」


「そうですか? わかりました、では健斗様で」


「いやいや、せめて〝さん〟でお願いします」


「ははは、わかりました。健斗さん」


「ありがとうございます」


和やかなムードとなり、こうやっていつも疲れた心を緩和させてくれる栗山の存在に、健斗は感謝していた。


ハンドルを握る運転手の栗山が、また優しい表情で微笑みながらバックミラー越しに健斗に目を向けた。


「あ、健斗さん、会長から〝しばらくは取引先のホテルに滞在するのはどうか〟と提案を受けていらっしゃると思うのですが?」


「はい。言われましたよ。でも……いくら会社から近いとはいえ、父は何故わざわざホテル住まいしろと?」


「健斗さんを心配されてのことだと思います。あのご自宅は大学や論文に取りかかる作業場的な要素も含んでいますし、なんといっても生活の場所で、これまでのルーティンが軸として根付いていますよね? しかし新しい発想と感覚を持つに為には、そういう日常的な場所から切り離した居住空間が必要なんだと、会長は(おっしゃ)ってましたから」


親父(おやじ)がそんな事を?」


「ええ。ご自身も難解な案件で頭を悩ませていらっしゃるような時期は、しばらくホテルに連泊されたりしますよ。生活感のない場所で、所有するものや定番の行動から切り離して、心と身体を本当の意味で休ませるんだと仰っていました。特に……健斗さんのお母様が亡くなられてからはね」


「そうですか」


母が亡くなった時、健斗は父とその友人の家族に支えられ、悲しみに潰されることなく生きられた。

しかし父が帰らないことも多く、家政婦や友人の家族と過ごすことも度々あったと思い出す。

子供だった自分は周りに助けられたが、父は一人で戦っていたのかもしれない。

当時の自分が幼すぎて父の力にはなれなかった分、その恩返しが今のこの状況だと、自分のなかで折り合いをつけていた。


「環境を変えることも大事なんですね」


「ええ。ですから会長は、宿泊されるときは着替え程度の物しか持っていかれないんですよ」


「確かに。論文一式持っていったら意味がないですよね?」


「まぁ、気になって取りに帰るくらいなら、お守り程度に持っておくのもアリですよ。そういった細かい懸念さえ無くして、すべてから解放されることの方が大事なので」


「なるほど……」


健斗は後部座席の窓を少し開ける。

気温はまだ下がっていないが、風の匂いが季節の変わり目を知らせた。


新たな一歩を踏み出した今、それでもまだ迷いや戸惑いが続く毎日のなかで、先人の苦悩や工夫に学んで乗り越えていくのも悪い選択ではないと、ようやく思えた。


「栗山さん、午前の会議が終わったら、一旦大学に行って片をつけてきます。それで少しは論文にかかる時間も短縮できそうですので。しばらくこんな状況が続くと思いますが……構いませんか?」


「もちろんです! では本日も会食が終わり次第、大学にお送りしますね。ホテルの方も、いつでも手配できるようにしておきますので」


「ありがとうございます」


社会性もないまま大学で好きなことだけをして年齢を重ねてきた自分が、社会においていかに未熟であるか、毎日何度も思い知らされる。


「いってらっしゃいませ」


『FMJホールディングス』本社のターミナルに着くと、わざわざ車から降りて送り出してくれる栗山に会釈し、エントランスに向かった。

道を開けるように立ち止まって頭を下げる多くの従業員に挨拶をしながら、この多くの人に助けられ支えられながら生かされている他力本願の自分から早く脱却して、会社の(おさ)としてふさわしい人間になりたいと、健斗は改めて思った。


第79話『Made a commitment』- 終 -

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