第78話『忙しい日々のなかで』
父である藤田公彦が会長を勤める『JFMホールディングス』における自らのCEO就任にともない、健斗は取引先や関連会社等のごく身内向けに先だって行われた小規模なプレ披露パーティーで、『東雲コーポレーション』の東雲亮一会長と話す局面があった。
真正面から目を細めるようにしてやって来た東雲は、緊張気味の健斗の手を取り、グッと掴んで微笑む。
「健斗くん! いや、藤田CEOだね。おめでとう」
健斗は東雲の手を握り返す。
「東雲会長、本日はご列席下さってありがとうございます」
「これから我々の世代に新しい時代を見せてくれるんだな。期待しているよ!」
その手の温もりと込められた力に、東雲の思いを感じる。
こんなにも穏やかな視線を東雲から受けたのは久しぶりのことで、それはかつて自分がまだ子供の頃の記憶だった。
瞬時にその頃の気持ちが甦り、健斗は胸を熱くする。
「はい! ご期待に添えるよう尽力します。本当に……ありがとうございます」
心が流れ出し、思わず中学生だったあの頃のように〝東雲のおじさん!〟と口走ってしまいそうになる。
東雲は優しい表情で健斗の腕をさするように触れながら、その顔をまじまじと見つめた。
「本当に立派になって……これからはビジネスパーソンとしての話もできるなんて、夢のようだよ」
頭のなかを駆け巡るあらゆる苦悩も、東雲のその言葉に救われたように軽減していく。
「東雲会長……」
健斗を見つめ、何度も頷きながら、東雲はふと眉を上げる。
「おお、そうだ! 一度、藤田と君と私の三人で一席設けよう! もちろん、酒は飲めるんだろう? どうかな?」
「はい! 喜んで」
「そうか、早速楽しみができた」
懐かしさを感じる東雲の笑顔が、どんな人からの祝福よりも嬉しくて、健斗は心から感謝した。
華々とした新たなステージの幕開けにかなり気後れしていた健斗ではあったが、かつて〝おじさん〟と呼び慕っていた東雲がそっとその背中を押してくれたように思えた。
滞りなく終えたパーティーから数日間、今度は論文の中間発表の時期が間近に迫っていて、健斗は息つく暇さえもなく今度はそちらに取りかかっていた。
かれんと会えるどころか、寝る間も惜しんで論文に向き合う日々が続く。
研究にあたってメインに持ってきた『非線形関数解析』という論文のテーマが、このところ流行りの兆候があると指摘を受け、角度を変えたブラッシュアップが必要だという結論に至ったこともあり、更に健斗の頭を悩ませていた。
発表の日程がずれ込んだせいで、ようやく実現できたかれんの母との初顔合わせをすっぽかす結果となってしまい、健斗に更なる追い討ちをかける。
無念な思いを抱えながら彼女に謝罪すると、かれんは〝自分も多くのイベントを抱える忙しい身だから、こういうことはお互いにあり得ること〟と理解を示してくれた。
彼女の母親に対して直接電話での謝罪を申し出たが、かれんは母の渡欧が近いと言う理由でやんわりと断ってきた。
その後も彼女自身が多忙ということもあり、電話ても声が聞ける機会はぐんと減った。
かれんとの文字のやり取りを眺めながら健斗は、リベンジディナーはかれんの母がフィレンツェから帰国してからとなりそうだと不本意な現実を予想し、肩を落とす。
「迷惑かけちまったな……それに、またかれんとも会えない日々が続くのか……」
その後もほぼ連日、父である藤田会長を含めた企業との談合が続き、健斗は精神的にも余裕のないまま、気が付けばまた憂鬱な週の始まりを迎えるというのが定番となっていた。
第78話『忙しい日々の中で』- 終 -