第76話『疑問』
かれんは一人、駅前のカフェに居た。
いつもなら心華やぐラテアートも今は胸に響かず、めかしこんだドレスすらも皮肉に思える。
もともとおおらかな自由主義で、価値観を押し付けることもないような母が、何故あれほどまでに一方的に健斗との交際に反対したのか……
考えれば考えるほど解らない。
そもそも母が彼をどこまで知っているのかという点においても疑問だったが、何を問いかけようとも母は頑なに〝ダメ〟の一点張りで、いたたまれなくなったかれんは店を飛び出し、あてもなく歩き回った挙げ句、ここにたどり着いた。
それまでの幸福感から一転、想像すらしなかった母の発言とその表情を思い出すと、今もまた苦しくなって、かれんは胸を押さえる。
手に触れたサファイアのネックレスに、また一つため息をついた。
ショックが大きすぎたとはいえ、母に対して子供のように声を荒げて反発したのはいつぶりだろうと考えると、とたんに頭の中に靄がかかる。
欠落した記憶の中に、それがあったのかもしれないと思えた。
ついさっき、レストランから走り去るときに目にしたエントランスの豪華な壁面装飾とその回りを飾るステンドグラスに見覚えがあるような気がした。
母の言うように、かつてあの店を訪れたことがあるのだと思う。
しかし、それ以上はなにも思い出せず、心の奥にあるはずの記憶が何らかによって封印され、呼び戻せなくなっていることを実感した。
「わからない……このもやもやした感覚が何なのか……とっても大切なことを忘れているような……」
懐かしいとも悲しいとも言えない不思議な気持ちを思い起こそうと目蓋を閉じると、バシッと頭痛がした。
「うっ!」
それと同時に、三連の星のシルエットがバッと脳裏に浮かぶ。
「え?!」
ハッと目を開けてバッグに着いている実在のキーチェーンに目をやった。
同じシルエットではあるが、頭に浮かんだものとは何かが違っていた。
「欠落した記憶の中に、何か問題があるのかも……」
そう呟きながら再度カップを持ち上げ、ラテの甘い香りを吸い込んでみるも、心が軽くなることはなかった。
コーヒーショップのドアが開き、二人の女性が辺りを見回す。
「ちょっとかれん! なにやってんのよ!」
背後から聞こえる声に振り向く。
「由夏、葉月……」
「さっき独り言、言ってたわよね?! ガラス越しに見てビックリしたわよ! やだ……かれん、かなりダメージ受けてるとか?!」
かれんはなんとか振り絞って苦笑いを見せた。
「二人ともごめんね……休みの日に呼び出して」
二人はかれんの肩に手を置き、席につく。
「そんなのいいわよ、こういう時の親友でしょ?」
ようやくかれんの心が、少し息を吹き返した。
「それで!? 一体どうしたってわけ? ウチの社長が仕事以外に悩みを抱えるだなんて!」
そう笑いかけながらも少し心配そうな面持ちでテーブルを囲む二人に、かれんは母とのやり取りを話した。
二人は驚きを見せるも、その表情はだんだん不可解に傾いていく。
「ふーん……だいたい概要はわかったけど、謎だらけじゃない?」
「そうね。かれん、何か思いあたる点はないの?」
テーブルを囲みながら、いつしかかれんの悩み相談というより親友二人による聞き取り調査に替わっていった。
「それが……正直ね、全く思い当たることがないの。ただ、藤田会長とうちのパパが思いの外、近しい関係にあるみたいだから、ママもパパと離婚する前には藤田会長と関わりがあったのかもしれないわ」
「確かに。あのCEOのお披露目会に東雲会長も出席してたしね」
「じゃあ、知り合いだけど仲良くはないってこと?!」
「そうは見えなかったけど?」
「だってかれんママは、藤田先生の名前を出したとたん〝ダメ〟って言い出したんでしょ? 決定的じゃない?」
「父親同士は友好的なのに……
変よね?」
「もしかして、どこかから悪い噂でも聞いたとか? ほら、『JFM』はトップの入れ替わりって言っても、経営陣からじゃなくて突然畑違いの分野から身内がCEOに就任するわけでしょ? 異論を唱える人も多いだろうし」
「確かにちょっと複雑な状況ではあるわね。まぁ株主の中には反対派もいるだろうから、こういうケースは妙な吹聴があるのも珍しくはないと思うけど……でもさ、私たちでさえも知り得ない情報なんてあり得る?!」
「いや! ないわね!」
「でしょ? まして近しい藤田先生の噂なら尚更一番に私たちが耳にするはずよ。しかもそれを、先にかれんママが知ってるなんて、現実的じゃないわ」
由夏と葉月のディスカッションに耳を向け、その明白な意見を聞いていると尚更、この展開が奇妙に思えてくる。
「うん……確かに」
「知り合いだともはっきり言わないのよね? やっぱりおかしいわ、何か特別な事情があるはずよ!」
「そうよね……」
かれんががっくりと肩を落とすと、由夏がその背中をバンと叩いた。
「まあでもさ! もう大人なんだから、究極の話、親の反対があったくらいで、あなたたちも別れたりしないでしょ?」
「え……」
かれんはその言葉に顔をあげる。
「親の説得の方は時間がかかったっていいんじゃない? 結局は二人がその間に絆を深めていればいいのよ」
葉月があっさりそう言った。
「そうそう! 焦ることなんてないわよ、何せまだ二人は始まったばかりじゃない? まぁ、ひょっとしたら数ヶ月後には別れてるかもしれないしね?」
「もう! 由夏ったら!」
悪戯に笑いながら舌を出す由夏の笑顔につられて、かれんも笑った。
「あはは、まあまあ、ケーキでも食べて落ち着こうよ!」
「ケーキ?」
「そう、かれんのおごりで! ね? 葉月!」
「ええもちろん! 私は〝米粉入りメープルシフォンケーキ〟ホイップ増し増しで!」
「じゃあ私は〝あまおうイチゴのベリーチーズケーキ〟にしよう!」
「もう! 抜け目ないわね!」
「ふふっ。かれんは〝丹波栗の渋皮モンブラン〟にするんじゃないの?」
「あ……まぁ……そうだけど」
三人は顔を見合わせて同時に笑った。
「ほら、注文注文! すみませーん!」
二人の優しさを感じ、かれんの心も軽くなっていった。
三人三様のケーキが揃い、かれんが話し始める。
「あのね……昔に話したかもしれないけど、私、記憶がない時期があって」
「ああ。大学の時に聞いたことがあったわね」
「幼稚園の時のことは覚えてるんだけど、小学校の低学年くらいから数年の記憶がごそっと抜け落ちてる感じで。だから、どうしてパパとママが離婚したのかとか、肝心なことが……わからなくて」
「そっか。お母さんに聞いたりしないの?」
「うん。なんかタイミング逃しちゃったから、今さら聞きにくくて……小学校六年生の時だったかな、卒業文集を書かなきゃならなくて、何気なく小さいときの話を聞こうとしたら、ママにあからさまに悲しい顔されて……それ以来、話題にも出来なくてね」
「そっか、かれんらしいね。小学生の時から気を遣う子供だったんだ?」
「あんまり記憶はないんだけど、パパの家に行ったらなんだか温かい気持ちになるの。物の位置とか、どこに何があるとか断片的に覚えてたりもするし。でもそこで過ごした記憶はなくて……なんだか不思議な気持ちで」
二人はかれんを見つめる。
「記憶喪失として診断されたことは?」
「心療内科にはかかってたけど、診察が終わったあとにママだけ呼ばれて先生と話してたから、よくわからない……」
「診療記録が手に入れば……ま、それは現実的ではないか。今回の件の解決に繋がるとも思えないしね。そうだ! 子供の頃の写真は? フォトスタジオとかで撮った家族との記念写真とか、運動会とか音楽会とかの行事のスナップとか。一人娘だもん、絶対にあるはずよ!」
「そうよね……でも、うちのマンションにはないのよね。あるとしたら、全部パパの家に置いてあるのかなって……思ってた」
「えっ? ないの?! 一枚も?! 普通、キャビネットの上とか、ところ狭しと飾っててもおかしくないのに?!」
「確かに。そういえば……飾ってあるのを一つも見たことがないわ。どうしてだろ?」
「いや、それはだいぶん不自然よ。あの〝かれん大好きパパ〟だったら、娘とのツーショットを巨大パネルでもしそうなくらいなのに……」
「ホント。それってさ、やっぱり故意に隠されてるってことなのかもね」
葉月の言葉に、かれんは大きくため息をついた。
「ねぇかれん、調べるとしたら、やっぱり東雲の家で家捜しするしかないんじゃない?」
由夏の提案に肩をすくめる。
「え! 家捜し?! なんか変な気分だわ」
「まぁ、今回の藤田先生との問題の鍵がそこにある確証はないし、取り越し苦労かもしれないけど、何らかのアクションを起こして今の状況を打破していかないと……」
かれんはため息をつきながら顔をあげた。
「そうよね! こんなにもやもやするくらいだったら、あの家に行って調べてみるのもいいかも」
「そうね! 決まり!」
少し明るい表情を取り戻したかれんと二人の親友は、再びケーキにフォークを突き立てた。
第76話 『疑問』- 終 -




