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『記憶の森』 Leave The Forest ~失われた記憶と奇跡の始まり~  作者: 彩川カオルコ


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第75話『Out of the blue』

土曜日の昼下がり、かれんとその母のさゆりはレストランの個室にいた。

洒落たドレスに身を包んだかれんのその胸元には、さゆりから譲り受けたブルーサファイアが(きら)めいている。


「ふーん、なかなか似合ってるじゃない? かれんもそんな年頃になったってことね」


母にそう言われて、胸元に手をやりながら気恥ずかしそうに微笑むも、かれんは緊張していた。

ようやく母と健斗の顔合わせが実現すると思うと、さっきから心臓の音がどんどん大きくなっていくように思える。

多忙な中、なんとかスケジュールを調整した健斗は、さゆりとの食事に格式高いフレンチの老舗の店をチョイスした。

先に母娘で訪れてみて、ここが偶然にも母のお気に入りの店だと判明し、かれんの心を少し軽くした。

さゆりは到着するなり上機嫌で、嬉しそうに店内を見回す。


「わぁ、変わってないわね……あのときのままだわ。さすがにシェフは代が変わっているだろうけど」


母が言うには、かれんも幼い頃に父と母に連れられてよく来店していたらしく、当時は父の友人の家族と共に食事することが多かったそうだ。


「毎週のように来てた時もあったのよ。それぞれの家族のお誕生日のお祝いを、ここてしたこともあったわ」


「そうなんだ? やっぱり私……その頃の記憶は全くないな……」


かれんは少し(うつむ)く。


「あ、でもこの前ね、ママがこのネックレスを着けてたシーンが、なんとなく頭に浮かんできたの! 私の記憶、戻るかもしれないって、ちょっと期待しちゃったり……」


「いいの!」


さゆりがかれんの言葉を(さえぎ)った。


「昔の事なんか思い出さなくていいのよ! かれんの記憶が欠落してるのなんてほんの一部だけでしょ? さほど重要じゃないわ。無理に思い出そうとしたら、今の記憶と混同して心身ともによくないってお医者さんも言ってたじゃない? だから無理に思い出そうなんてしちゃ、絶対ダメよ」


「まぁ……そうよね。わかったわ」


気を取り直して、久しぶりの母と娘の水入らずの会話が続く。


そのうち、かれんが時計を気にし始めた。


「ママごめん。彼ね、今日は大学で論文の中間発表会があるんだけど……どうも長引いてるみたい。途中で連絡するのは難しいらしくて……」


「へぇ、大学にお勤めなの? 意外! てっきり『ファビュラス』の関係の人かと思ってたけど……」


「ああごめん、そう言えば彼のこと、なにも話してなかったよね」


「いいのよ。なんかその方がワクワクするじゃない?」


「あはは、なんか、ママらしい」


「そう? まぁどんな人かってことは、会えばすぐにわかると思うわよ。私だってそれなりの年月、生きてるわけだし」


かれんは納得したように頷いた。


「まぁあなたも忙しいんだし、私も帰国してからも出掛けてばかりだったから、ゆっくり話す間なんてなかったもんね」


「うん。今日はようやく時間が合うと思ったんだけど……やっぱりちょっと無理させちゃったかな?」


「そうかもよ」

さゆりが意地悪そうに視線を向ける。


「じゃあ、彼には〝今日は気にしなくていい〟って連絡しなさい」


「うん。きっと今も気に病んでるよね。優しい人よ。彼、ママに会うのをホントに楽しみにしてたから……」


「私さえこっちにいれば会うチャンスはあるわ。今日のところは気にしないようにって、彼に伝えてあげて」


「わかった、ありがとう。メッセージ送っておくね」


「じゃあ、せっかくだから、二人で食事しましょう!」


懐かしいメニューをみつけたさゆりは、上機嫌でオーダーをして食事が始まった。


「わぁ、これ、すっごく美味しい! あーあ、彼も来れたらよかったのに」


残念そうに言うかれんを微笑ましく見つめる。


「ええ。味もクオリティーも変わってないわ。まぁ、会えないのは残念だけど、でも男はしっかり仕事しないとね! また来ましょう。彼と一緒にね」


かれんは満面の笑みで頷いた。


「彼ね、まだ若いけど大学の准教授なの。論文がホントに大変みたいで……近々アメリカにも行かなきゃならないみたい」


さゆりは眉を上げた。


「大学の准教授だなんて、優秀なのね。立派なお仕事じゃない!」


かれんはその言葉に嬉しそうに頷いた。


食事も終盤を迎え、最後のデザートに舌鼓を打つかれんに、さゆりはくすくす笑う。


「ふふふ。そんなに頬張らないの! あなた、子供の頃と同じ顔してるわよ」


「だって! このフランボワーズのタルト、美味しすぎるんだもん!」


「あはは。ゆっくり食べなさい。ああ、ところでかれん、彼のお名前も聞いてないわよ?」


かれんは肩をすくめる。


「やだ! ほんとよね! 私ったらうっかりもいいところ……実は彼ね、パパとも顔見知りみたいだから、ママに先に会ってもらったら、パパにも報告しなきゃなぁって思ってて……」


さゆりは驚いたようにかれんの顔を見つめた。


「え? パパの知り合いだったの? そりゃ……パパはかれんにデレデレだから、教えてあげた方がいいとは思うけど……大学の先生でしょ? 一体、どんな知り合いなの?」


かれんはフォークを置いて最後の紅茶をすすった。


「ああ、この前、『JFMホールディングス』のパーティーがあったんだけど……」


「え……『JFM』?!」


さゆりの反応に、かれんは首をかしげる。


「そうだけど……ママも知ってるの?」


「え、ええ……まぁ」


「そりゃそうよね。有名企業だし。パパは会長とも知り合いみたいだったしね。それで、実は彼、その会長の息子さんで……」


さゆりがガシャンと音をたててフォークを落とした。


「ママ! 大丈夫?! どうしたの?!」


「……もう一度……言って。誰の息子って?」


蚊の鳴くような声で言ったさゆりに眉根をよせる。


「ああ、彼は『JFM』の会長の……」


さゆりの凍りついた表情に、かれんは言葉を失う。


「……ねぇママ? なんかさっきから変よ?」


「その人って……『JFM』の藤田さんの息子の……」


かれんが頷く。


「ええ。ママも会長を知ってるのね! 彼は帝央大学の数学の准教授なんだけど、実は今度『JFM』のCEOに……」


さゆりはかれんの言葉を遮った。


「……待ってかれん」


「え? どうしたのママ……」


母のただならぬ雰囲気に、かれんに緊張が走る。


俯いたさゆりは、絞り出すような声で言った。


「……彼は……ダメ」


「え、なんて……言ったの?!」


さゆりの悲壮な表情の意図がわからなくて、かれんは食い入るようにその目を見返した。


「かれん、彼だけは……ダメなのよ」


「なに……いってるの?!」


さゆりはバッと顔を上げ、瞳を潤ませながらも強い視線でかれんを見据えた。


「かれんお願い! 健斗君だけは……どうしてもダメなの。(あきら)めてちょうだい」


「ママ……」


かれんは息を荒くしながら、大きく首を横に振った。


「そんなこと……できるわけないじゃない! 変よ……どういうこと? 理由を教えてよママ! 一体彼の何を知ってるっていうの!?」


「ごめんなさい……話せないわ……」


「なによそれ! 健斗のこと知ってるならなおさら、彼がどんな人か解るはず……」


「いいえ! ダメなの! かれん……お願いよ」


かれんはテーブルを叩きつけるように、勢いよく立ち上がった。


「ひどい! そんなの、納得できるわけないじゃない! 最低よ!」


バッグを荒々しく取って、ドアを乱暴に開けて退出していく娘の後ろ姿をみつめながら、さゆりは顔を歪め、胸を押さえた。


久しぶりに交わした母娘のハートフルな空間から、一気に地に打ち付けられたような状況に息が詰まり、さゆりは苦しくて、大きく肩を揺らしながら顔を伏せる。

そしてうなだれたままスマートフォンを取りだし、そっと耳に当てた。


「……私です……ええ、ずいぶん。実は……大変なことになってしまって……今から時間つくってもらえるかしら」


電話を切ったあとも、さゆりは頭を抱えるように、しばらくテーブルに突っ伏していた。


「なんてこと……」


泣き出しそうな形相(ぎょうそう)で呟いたさゆりは、胸を押さえたまま息を整えると、重い腰をあげて店をあとにした。



第75話『Out of the blue』- 終 -

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