第72話『意外な訪問者』
第72話『意外な訪問者』
健斗の帰りを待ちながら、彼の部屋でひとり過ごしていたかれんは、手に付かない仕事に見切りをつけて夕食の下ごしらえをしようとキッチンに向かった。
ダイニングへ上りきったところで突然インターホンが鳴る。
おおかた宅配業者だろうと何気なくモニターの前に立ったかれんは、そこに写った人物を目にした瞬間、その場で凍りつく。
「え……」
もたもたしているうちに画面が消え、間髪いれずもう一度電子音が鳴った。
ここで自分が出ていいものか判断に迷うも、彼に連絡する術はない。
焦る気持ちと時間だけが過ぎていき、戸惑いながら目するモニターの中で、その人物がカバンの中を探りはじめた。
同時に自分のポケット中のスマホが振動して、ハッとする。
恐る恐る画面を覗くと、そこには今モニターの向こうに映る人物からのメッセージがあった。
「お話があります。ドアを開けて下さい」
目を見開くように画面を凝視したかれんは、息を整えながら解錠ボタンを押した。
かれんは、玄関までのスロープを下りながら、何から話すべきかと考えていた。
そんな思いとはお構いなしに、ドアが開く音がする。
玄関に入ってきたその人物は、かれんを確認するように静かに視線を送ると黙って頭を下げた。
そして徐に玄関クローゼットの扉を開き、中からボアのついたラルフローレンのルームシューズを取り出すと、パタンと床に置いて足を入れ、かれんを見上げた。
「入ってもいいですか?」
「ええ……」
その返事を待たず、かれんよりも先にすたすたとスロープを抜け、ダイニングに向かい、キッチンに立つ。
そして勝手知ったる様子で頭上のキャビネットを開くと、ひとつの紅茶の缶を取り出した。
「まだ……ここにあったんだ」
小さくそう呟いて、慣れた手つきでお湯を沸かし始める。
「イギリスで買った『Williamson Tea』なんですけど……もう味が落ちてるかも」
独り言のように言う彼女を見上げる。
「レイラちゃん……」
レイラはダイニングテーブルに二つのカップを置いた。
「かけて下さい。かれんさん」
沸いたケトルで湯を注ぐと、華やいだ紅茶の香りがふわっと辺りに広がった。
かれんと向かい合って座ったレイラは静かにカップに口をつけたあと、ようやくまっすぐかれんを見る。
「健ちゃんから聞いたんじゃないですから」
レイラは声を振り絞るように切り出した。
「ここにこの紅茶を置いたのも、このルームシューズをはいたのも、一年以上前なんです。健ちゃんね、私がモデルでメディアに出だした頃から、この部屋に入れてくれなくなりました。ここにも来るなって……だから……私と健ちゃんは、本当にただの従兄妹同士で……」
かれんは戸惑った表情のまま、ただレイラの話をじっと聞いていた。
「かれんさん、私と健ちゃんのこと、ずっと誤解してたんでしょ? でも……残念ながら、なにもないですよ。私の一方通行で……何年も何年も思ってきたけど、健ちゃんは一度も私をひとりの女性として見てはくれなかった」
自嘲的なため息をつくレイラに、かれんは改まったように膝に手を置いて頭を下げた。
「レイラちゃん、ずっと話さなきゃって思ってたのに……言えなくて」
レイラはその言葉を遮るように首を振りながら、気丈なそぶりで話す。
「実は、少し前から気付いてました。目撃したんです、二人でいるところを。ショックだったけど……意外だとは思いませんでした。だって、ワールドコレクションで二人が会った時から、予感っていうか……いつかこうなるんじゃないかって思ってたんです。だからずっと怖かった……」
「怖かった……?」
「ええ。かれんさんは私の憧れですよ。恩人でもあるし、何でも話せるお姉さんみたいな存在で。モデル仲間の中でも私が一番かれんさんのことを理解してるって思ってて……だからわかるんです。健ちゃんがかれんさんを知っちゃったら、絶対好きになるって。健ちゃんのこともよくわかってるから……」
レイラは俯いて、声を曇らせた。
「わかってても悔しいですよ……そんなかれんさんと、ライバルだなんて。ずっと無条件に好きでいたかったのに……よりにもよって子供の頃からずっと好きだった健ちゃんが相手だなんて。だから二人の邪魔しようなんて考えたこともあったんですけど、私の入り込む隙間なんて……なかった」
「……ごめんなさい」
「かれんさんが謝ることじゃないですよ。私が勝手に健ちゃんを想ってて……でもあっちは私のことなんて、本当に妹としか思ってなかったんですから。結局ずっと、そしてこれからも永遠に関係性は変わらないんです」
「レイラちゃん……」
「でもね、逆に言えばこれ以上遠退くこともないんです。だから……これでいいんです。これで……」
レイラは勝ち気な表情を見せるも、その頬は憂いを帯びていた。
「そうであったとしても……ごめんなさい。辛い思いをさせて」
かれんの言葉に、レイラは息を吐きながら頷いた。
「確かに、かれんさんと健ちゃんが一緒にいるところを目撃したときなんかは、胸が潰れるような気持ちを初めて体験した感じだったんですけど……でもね、じゃあ改めて、もし健ちゃんが私の恋人になったとしたらどんな感じだろうって、考えてみたんですけど……それはそれでうまく想像できなかったんです。波瑠や天海先生はどう思ってるか解りませんけど、逆に言えば私の立場として、健ちゃんとはこれ以上離れることも近づくこともない関係性なんだなって」
「……波瑠くんや天海先生?」
「あ、私ったら……口を滑らせるなんて」
口を押さえたレイラが諦めたように俯いた。
「この下の階に波瑠の部屋があるんです。波瑠もかれんさんらしき人を見かけたみたいで」
「え? このアパートに波瑠くんが!?」
「ええ。健ちゃんから聞いてなかったんですね。いずれ近いうちに波瑠に話すつもりだったんだと思います。かれんさんにもコソコソさせたくなかったんでしょうね。健ちゃんって、そんな人なので」
「本当によくわかってるのね。彼がレイラちゃんに信頼をおいているのもよく解るわ」
「ええ、兄妹以上にね。全然本意じゃないですけど。実はこの前ね、波瑠の部屋で天海先生と三人で話す局面があって……」
「え、三人? 天海先生も?」
「ええ……そのいきさつは話すと長くなるんですけど。その時、天海先生はここに健ちゃんが住んでることも、かれんさんが居ることもどうも知ってたみたいな口ぶりだったんです」
「ああ……それは」
かれんはこの家で倒れたときの話をした。
「ええっ! そんなことが……かれんさん、もう大丈夫なんですか?!」
「ええ、あれからはなんともないから、単に疲れてたんだと思うんだけど。天海先生はさすがにプロね。患者の守秘義務に徹底してる」
「そこに感心してる場合じゃないでしょう! 気を付けてくださいよ! そんなことがあったのに、今日もここに一人で来たんですか?! もしまた倒れたらどうするんですか!」
顔を赤くして捲し立てるレイラに微笑む。
「あ……レイラちゃん、もうホントに大丈夫だから」
かれんはレイラを見つめ、正面から手を伸ばして、レイラの手に触れた。
「ありがとう。心配してくれて」
レイラはぎこちない表情で俯く。
「やだ私ったら、ライバルなのに……でもね、やっぱりかれんさんのこと、好きな気持ちに変わりはないみたいです」
「レイラちゃん、ありがとう」
二人は手を取り合ったまま見つめる。
レイラが少し表情を改めた。
「かれんさん、実は聞いていただきたい話があるんです」
「話?」
「ええ、重大な話なんです。私はそれを話しに、今日ここに来たので」
レイラはかれんの手をぎゅっと握り返してからサッと立ち上がると、冷めた紅茶を淹れ直した。
第72話『意外な訪問者』- 終 -




