第71話『久しぶりの彼の部屋』
健斗の父が会長を務める 『JFMホールディングス』が内々で開催したCEO就任パーティーを皮切りに、健斗の日常は目まぐるしく変化していった。
かれんの母と健斗が対面する日程が決まって喜んだのもつかの間、これまでの大学准教授の日常とはかけ離れた社交界に、健斗は疲弊していた。
それでも毎日欠かさず連絡をくれる健斗に、かれんはただ安らぎを与えたくて、多くを語らずに思いだけを伝えて電話を切る日々が続く。
週末になっても過密なスケジュールをこなす彼とは会えない日が続いて内心淋しく思うも、このくらいの障壁に音を上げていてはお互い立場のある大人としての恋は成立しないだろうと、かれんはいつも自分に言い聞かせていた。
募る思いを押さえながら、ようやく迎えた今日という日に、胸を踊らせる。
彼との約束の時間にはまだ半日もあろうかという、陽も傾かない昼下がりに、かれんは既に川沿いの道を北上していた。
せせらぎを感じながら、すっかり青々とした葉をつけた桜並木を見上げる。
時折キラリと差し込む木漏れ日を眩しそうにかわしながら、彼を思う心が自分にこんな行動を起こさせることを不思議に思った。
アパートの前まで来ると自然と頬がほころび、今夜ようやく彼に会えるのだと実感する。
勝手知ったる足取りでアパートの一階を奥まで突っ切り、エレベーターに乗る。
その機械音を聞きながら階数表示に目をやると、ふと倒れた日のことが頭によぎった。
あの日もこのくらいの時間にこの光景を見ていた。
まだこの段階では何の予兆もなかったと思った瞬間、少しの緊張と動悸を感じる。
暗証番号をプッシュする手が少し震えたが、解錠して速やかにドアの内側に入ると、玄関にあらかじめ健斗の手でスリッパが置かれていて、それを見たかれんはホッと落ち着きを取り戻した。
趣のあるスロープ状の廊下を通ってダイニングに着くと椅子に荷物を置き、買ってきた夕食の食材を冷蔵庫に入れようとキッチンに向かった。
扉を開けると、その中央に分かりやすく紅茶のペットボトルが横たえられていて、〝Welcome〟と書かれた付箋が貼ってあった。
健斗の心意気にキュンとしながらそれを取り出し冷蔵庫に食材を詰めると、椅子に置いたバッグを持ち上げてすり鉢状になったリビングに向けて階段を下りていく。
コルビジェの白いソファーに体を埋めながら、カリッとペットボトルを開け、静かな空間を見回しながらすっかり落ち着いたかれんは、健斗が帰宅するまでの時間を仕事に費やそうとカバンに手を伸ばし、次のイベントの資料を取り出す。
そのシチュエーションに、ある光景が浮かんで、思わず手を引っ込めた。
「あ……」
あの日……
健斗のライブラリーから借りていた本がこのカバンに詰まっていた。
かれんはふと、キッチンと反対側の壁を見上げる。
バスケットリングが設置された壁の、左側の廊下の先。
それらの本を持ってここを上がり、その廊下を通って突き当たりにあるノスタルジーな空間に一人で向かった光景を思い出す。
寝室を通り過ぎ、バスルームも通り抜けてそびえる重厚な扉を開けると、その部屋のさらに奥に見える螺旋階段を下り、幻想的なステンドグラスを愛でながらライブラリー内に足を踏み入れたが、そこに降り立ったとき時はまだ何も起こらなかった。
「じゃあ……いったい、どのタイミングで?」
胸の奥がコトリと音をたてたような気がして、かれんは慌てて思考を止める。
ライブラリーの中のシーンを頭に浮かべると具合が悪くなるようで、倒れた寸前の光景は、天海医師にも止められていた。
「一人で倒れたりしたら、また健斗を心配性にしちゃうわね。ダメダメ、せめて心の負担はかけないようにしないと」
倒れた日の翌日は、珍しく仕事を休んでそのままのんびりと健斗と二人でこの家で過ごした。
夜になり、健斗に支えられながら『カサブランカ・レジデンス』に戻ってから、あっさりと休暇申請を受け入れてくれた由夏と葉月に改めて連絡をした。
倒れたことは言わずに〝自分も彼も少しのんびりしたいから〟という筋の通らない大雑把な言い訳をしたにもかかわらず、親友たちは〝ようやく仕事の虫が治まった〟と大喜びしてくれたので、少し心苦しかったことを思い出す。
そこからはさして体の不調もなく普通に日々を過ごすも、お互いが忙しくなって会う頻度が急激に減って、時間を捻出するのが日に日に難しくなっているように感じている。
かれんは小さく息をついて手元に視線を移すと、カバンからパソコンを取り出して作業を始めた。
ただ首を長くして彼の帰りを待つよりも、仕事をしている方が格段に時が早く進むように感じられる。
『ファビュラス』も夏のイベントに向けて最終的な打ち合わせが幾つも控えていて、本来なら週末の休みをとるのも惜しいほど忙しく、由夏や葉月とも連携しながらそれらを推し進めるルーティンをとっていた。
健斗にはいっそのことここに住まないかと言われたこともあり、倒れたことがきっかけで健斗の心配性が加速したと感じたかれんは、その言葉に後ろ髪を引かれながらも、こんな時だからこそお互い秩序を持って生活していこうと提案した。
「ダメね、考え事ばかりじゃ、仕事が進まないわ」
かれんはソファーから立ち上がって、キッチンへ向かって階段に足をかけた。
頭が働かないのであれば、先に夕食の下ごしらえをしながら時間をやり過ごすのもいいと思った。
ダイニングに上りきったところでインターホンが鳴った。
ここに来ているときにインターホンが鳴るのは初めてで、妙に緊張する自分に吹き出す。
不意に子供の時の感覚を思い出した。
「ママが居ないときはインターホンが鳴っても出ちゃダメよって言われてたな。怖い人に連れていかれるからって、さんざん脅すんだもん」
そう微笑みながらモニターの前に立ち、何気なく見上げた画面に写った人物を見たかれんは瞬時に凍りつく。
「え……どうして?!」
第71話『久しぶりの彼の部屋』- 終 -




