第68話『波瑠の部屋』
波瑠はレイラと天海を部屋に招き入れ、コーヒーでもてなす。
不可解なレイラの行動に疑問を投げ掛けた二人は、彼女の言葉に絶句した。
「見ちゃったのよ。健ちゃんと……かれんさんが一緒にいるところを……」
そう言ってレイラはゆっくりと顔を上げ、そっと二人の様子を窺った。
あからさまに驚いた顔をしている波瑠の隣で、天海は静かにカップを下ろす。
その悠々閑々とした表情から、彼の感情を読み取ることは出来なかった。
「でも私ね、さっき天海先生の話を聞いて、健ちゃんとかれんさんにも何かしらの事情があるんじゃないかって思えて来ちゃった! ほら、現についさっき私と波瑠だって天海先生に誤解されたわけでしょ? 二人はご近所さんだし、偶然会って、〝ちょっとお茶でもどう?〟みたいなことも充分ありうるわけだしね?」
二人の様子を窺うよう話すレイラに、波瑠が尋ねた。
「なぁ、レイラが二人を目撃したのって、もしかしてこのアパート?」
「……うん」
波瑠は納得したように頷いた。
「だからさっき、〝ここに来たくなかった〟って言ったんだな」
レイラは伏し目がちに息をつく。
「……ええ。健ちゃんね、論文は終わったって言ってたのに全然大学に出て来ないから……だから来てみたの。そしたら、二人でここから川沿いの道に出てきて……それで私、慌てて隠れて……」
今度は波瑠が大きなため息をついた。
「そうか……やっぱり……」
「え? やっぱりって?」
波瑠は数日前に、普段あまり稼働しないエレベーターが三階に停まったのを見て、不自然に感じたことを話した。
「で、でも……私たちだって、今こうして不自然な……」
今度は天海がそれを否定する。
「残念ながら、僕も目撃してるんだ。彼らは付き合ってると思うよ」
医師として、先日の彼女の病状を話すわけにはいかなかった。
レイラが驚いて顔をあげる。
「え……そんな……天海先生は、いいんですか?!」
「いいもなにも」
天海はおもむろに立ち上がった。
「事実には抗えない。人の心にもね。こうしている間に頭の上でどういうドラマが繰り広げられているかなんて考えてしまったら、とてもじゃないがやってられないよ。割りきらないと、前に進めないからさ」
身なりを整えながら独り言のように話した天海は、二人に笑顔を向けた。
「じゃあそろそろ、おいとまするよ」
立ち上がろうとしたレイラの肩にそっと手をやる。
「まだ静かにしていた方がいい。具合が悪いときに急に立ち上がるのは危険だってわかっただろ? これからも気を付けてね」
レイラは観念したように、頭を下げる。
「……はい。今日はありがとうございました」
天海は優しい表情で頷いて、玄関に足を向けた。
靴を履きながら、見送りについてきた波瑠に向き直った天海は、小さく息をつく。
「すまない、唐突に帰るなんて言って。僕もまだまだだな」
「天海先生……」
「伊波くん、君、店はどうするんだ?」
「え? あ……もうちょっとレイラの話を聞いてからタクシーで家に帰らせるつもりなんで、その後に開けようかと」
「そうか、そうしてあげて。本当に美味しいコーヒーだったよ。ご馳走さま。ありがとう」
「こちらこそ、レイラを連れてきてもらって、ありがとうございました」
「うん。じゃあ」
天海はドアの向こうに消えていった。
玄関から戻ると、レイラは天海の残したカップを見つめながらため息をついた。
「知ってたんだ……天海先生」
「そうみたいだな。レイラより前に目撃してたってことか」
「そうね。ということは……あの二人、とっくに始まってたのね」
二人は俯く。
「ひどいわ! なんで健ちゃん、言ってくれないんだろ!」
波瑠が首を振った。
「違うよ。言えないんだ。そんな水くさいタイプじゃないはずだから……どう伝えていいか、悩んでるはずだよ。それでなくても今、大学とお父さんの会社との板挟みで悩んでる時だし」
「私だってわかってるわよ! でも……」
レイラが顔を伏せた。
「っていうか、健斗さんがボクのことも避けてるとなると……ボクの気持ちも筒抜けってこと? ボク、かれんさんへの気持ちをぶっちゃけたことなんて、酔っててもないはずなんだけど?」
「そんなの、見てりゃ誰でもわかるわよ!」
レイラが投げやりに言った。
「それに、あの二人がそうなることだって、誰にでも予想がついたのよね……今思えば」
暫し沈黙が続いた。
「ねぇ波瑠? もう今夜はここで飲まない? 出るの、億劫になっちゃった」
「え……」
波瑠は時計を見上げて、大きくため息をつく。
「わかったよ。今から開けるのもなんだし……臨時休業にしよう。じゃあ……とりあえず、晩飯作るか!」
波瑠は仕込みと自分の賄いを作るための材料を玄関先に放置していたのを思い出し、慌てて鳥に向かうと、それらを用いて料理を始めた。
レイラがキッチンに移動してきて、ダイニングチェアーに座ったまま波瑠の手際を見ていると、波瑠はわざとらしく横目を向ける。
「手伝うなんて言うなよな。〝病人〟が今度は〝怪我人〟になりかねない」
「失礼ね! 包丁くらい握れるわよ。〝出来ない〟じゃなくて〝やらない〟だけ!」
「はいはい」
波瑠はあっという間に数品の料理をテーブルに並べた。
「わ、美味しい……ねぇ『RUDE Bar』をお昼も開けてさ、ランチやったら繁盛するんじゃない?」
「ああ、それ! 健斗さんにも言われたことがあって……」
その名前を発したとたん、また二人は言葉を失くした。
「ダメだなぁ、ボクらって。現実をこれっぽっちも受け止めらない」
「そうね。でもしょうがないわ、思いが深いんだから。それに、あんなに素敵な大人の代表みたいな天海先生まで、かなりダメージ受けてる様子だったじゃない?」
「うん。天海先生、〝僕もまだまだだな〟なんて自嘲的に笑ったりしてさ。本気だったんだなって……」
「他人事みたいに言うけど!そう言う波瑠はどうなのよ? やっぱり複雑な心境?」
「いや、天海先生の気持ちがわかるから……」
「ふーん、〝同士〟って感じなんだ? オトコって単純よね」
「ちょっと! それは天海先生に失礼だろ!」
「いいえ、分かりやすくてかわいいところがある男性の方が魅力的だもん。褒め言葉よ。波瑠もね」
「なんだそれ!」
「それより」
レイラが顔を近づける。
「天海先生、どこで目撃したんだろ?」
「ああ……確かに。実はボクもさ、天海先生の話で、色々アレ? って思うことがあったんだけど……あんな状況じゃ、そこに突っ込めなくてさ」
「例えば?」
「そうだな……この部屋に入ってきたときにさ、〝ここも〟って言ったんだ、どこと比べてるんだろうって一瞬思って。それに、帰る間際に言ってたこと、覚えてない?〝こうしている間に頭の上でどういうドラマが繰り広げられているか考えてしまったらやってられない〟って……もしそれがここの上階の事を言ってるなら、健斗さんがここの三階に住んでることを知ってるってことになる。ここに来るとき、天海先生はそんなこと、言ってなかった?」
「いいえ。でも……今思うと天海先生、エレベーターの位置を知ってたような気がする。こんなアパートにあんなに最新のエレベーターがついていることに驚きもしなかったし……あ、〝二階なんだね〟って……妙に引っ掛かった言い方してたな」
「そうか。なら確実に知ってるみたいだな。まぁ、それがかれんさんとどう繋がるかはわからないけど……でも数日前に外の廊下でボクが聞いたあのインターホンは、多分かれんさんなんだろうと思う。あの時、妙な胸騒ぎがしたから……」
「……そっか」
「それってさ、偶然にも『RUDE Bar』でレイラと天海先生とで話したあの日なんだよ」
「え! そうなの?! 波瑠! なんで言わなかったのよ!」
「だって……なんの確証もないのにそんなこと言ったら、レイラがますます酒乱になるだけじゃん?」
「もう! いつも波瑠は無駄に気を回すんだから! じゃあ……あの時にはもう……」
レイラが失速する。
「そうなるね……」
「でもあの夜は、天海先生はまだ知らなかったはずよ! だって、かれんさんに会えるのを期待して『RUDE Bar』に来たわけだし」
「だね」
「なら……あの日以降から今日までのこの数日間に、天海先生も決定的な光景を見ちゃったんだ」
「多分」
「そっか……」
「レイラ、どうするの? 『ファビュラス』の仕事、近々あるって言ってただろ? 健斗さんも一緒だって」
「うん。しかも天海先生のお友達のレストランよ。皮肉にもブライダルフェア。健ちゃんは最後の仕事になるでしょうね。それに、彼はタキシードで、私はウェディングドレスだなんて! 笑えない冗談だわ!」
「まぁまぁ……」
「ねぇ波瑠、私たち、こんなに近くにいるのに、忘れなくちゃならないの? そんなの無理じゃない? だってそうでしょ! いつも近くにいるのにその心は手に入れられないなんて、残酷すぎるよ……」
「そうだけど……入り込む隙なんて……」
二人はまたリビングに戻って、それぞれ手にした缶ビールのふたを開けた。
第68話『波瑠の部屋』- 終 -




