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『記憶の森』 Leave The Forest ~失われた記憶と奇跡の始まり~  作者: 彩川カオルコ


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第66話『ドクターの憂鬱』

第66話『ドクターの憂鬱』


陽の光が部屋の奥まで届いて、時間の経過を知らせる。

ゆったりと窓辺にむかって立ち上がった天海(あまみ)は、グーンと伸びをしながら窓を開け、外を見下ろす。

広い中庭では同じ室内着の患者たちがベンチで過ごしたり、看護士に車椅子を押してもらったり、あるいは患者同士が輪になって井戸端会議をしていたりと、それぞれの時間を過ごしている。

それらを一望しながらため息をつくと、どっと疲れが押し寄せた。

何時間も着たままの白衣を、自嘲的にはためかせながら、室内に身体(からだ)を向けようとした寸前に、背後から声がした。


「天海先生!」


ビクッと肩をすくめながら、ゆっくりと振り向いて苦笑いする。


「はい……婦長……」


「夜勤に入っておられたんですよね? なのにこんな時間まで病院にいるなんて!」


婦長に捕まると、いつも叱りつけられる。

当時は〝宗一郎くん〟だったのが、〝天海先生〟に変わっただけで、子供の頃から変わらぬその対応に、思わずこっちも子供のような反応をしてしまう。


「一度ご自宅に帰ってください。ちゃんと休息を取らないと! 医者の不養生はみっともないですよ!」


「そうですね……」


「院長も今はご子息のご熱心な姿を喜んでいらっしゃるでしょうけど、倒れられでもしたら、私が叱られます」


天海は苦笑いする。

「ははは、僕には母親が二人いるようだ」


婦長は微笑みながら肩をすくめる。

「とにかく! しっかり休んでくださいね。休むことも仕事ですよ! 患者さんにもそう仰ってるのに、ご自身が不摂生では示しがつきませんよ」


「はい……そうでした。仰る通りです。婦長、いつもご心配をお掛けしてすみません」


「謝らないでください。怒っているわけではないんですから」


「そうですね。いつもありがとうございます」


感謝しながら、いつのまにか小さくなった婦長の背中を見送り、更衣室でようやく白衣を脱いで病院を出ると、出迎えられた強い西陽(にしび)に思わず目を背ける。

頭がふらついて、目の奥に痛みを感じた。

いったい今日も何時間、この病院に居たことか。

そして何時間、眠れていないのだろう。

家には帰りたくなかった。

たった一人の空間で、途方もなく長く感じる時間を、砂を噛むような思いを抱きながら過ごしたあの夜が甦って来るようだった。

そう、突然かかってきた深夜の電話。

取るものも取り敢えず、ドクターズバッグ片手に駆けつけたその先には、かねてから懸念していた事実が待っていた。

医師として、友人として最適な処置をしてその場所を後にしてから、心の中から色彩が欠け落ちたような、空虚な日々を送っている。

時に波のように押し寄せる有痛性の切なさに襲われる瞬間もあり、それを避けようと病院に入り浸っていたが、気持ちが軽くなることは一度もなかった。

超過労働で叱られた分、栄養でも摂って少しは身体を(いたわ)ろうと車に乗り込んだ天海は、とりあえず友人の(ルミエール)経営する(・ラ・)レストラン(コート)に向かって走りだした。


あの大通りに差し掛かると、少し鼓動が上がる。

運悪く、彼女がよく通っているという例のコンビニの前の信号に捕まってしまった。

数日前の深夜、このコンビニを北へ左折した時の心情を思いだすと、また痛みのような感覚が胸に走る。

それをかき消そうと首を振ったとき、目と鼻の先にある『RUDE Bar』のドアが視界に入った。

その下方に膝を抱えた人影が見えて、天海は首を伸ばしながら目を凝らす。

身動きもしないその様子から急患かもしれないと察知した天海は、信号が変わると同時に店の前に車を着け、降りて駆け寄った。

店のドアの前に座り込んでいるのは若い女性のようで、ハイヒールをはいた足を抱き抱えるようにしながら、栗色の長い髪もそのまに、顔を伏せてうなだれている。


「どうしました?!」


声をかけるとその女性はパッと顔を上げた。

波瑠(ハル)……」


「え、レイラさん?!」


彼女はその声に驚いたようにバッと立ち上がった。


「あ、天海先生! あっ……」


そう言ってフラッとよろめいたレイラの身体を、天海がサッと受け止める。


「大丈夫?!」


「ごめんなさい……」


「いいけど……こんなところに座り込んで、何してたの?」


「あ……波瑠を待ってたんです。携帯が繋がらなくて。でももうすぐ店に入る時間だと思って待ってたら、気分が悪くなって……」


「とにかく、僕の車に座って」


「ああ……大丈夫です。急に立ち上がったから貧血起こしただけですから。波瑠のアパートが近くなんで、今から行ってみます」


「だったら、僕が車で送っていくよ」


「いえ、本当に近くなんで……」


天海はレイラの両肩をつかんで、その目を覗き込んだ。

「今の君なら、あそこに見えてるコンビニに行くのすら危険だよ。貧血だなんて決めつけてるが、診断は医師の僕がする。とにかく座ってて! 飲み物を買ってくるから」


そう言って天海はレイラを後部座席に押し込んで、コンビニへ歩いていった。


「ありがとうございます」

後部座席のレイラが、ほとんど飲みほしたアイソトニックのペットボトルを片手に頭を下げた。


「貧血だけじゃなくて、脱水も起こしかけてたみたいだね。脱水症状ってね、君が思ってるよりもずっと危険な症状なんだよ! 気を付けてね」


「はい」


「じゃあ出発するから、道案内してもらえる?」


「すみません……よろしくお願いします」


レイラの指示通り大通りを左折し、迂回しながらも川沿いの道に入ったところで、天海の心がまたもやざわついた。


「ああ、そこの少し奥まったスペースに停めてください」


彼女が指差した方向を見ながら、天海は血の気が引くのを感じる。


「え……ここは」




第66話『ドクターの憂鬱』- 終 -

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