第63話『はやる心』
第63話『はやる心』
駅に降り立った健斗は、半ば駆け出しそうな勢いで川沿いの道を北上した。
かれんの家が近付いてくると、その最上階のペントハウスに目をやる。
『カサブランカ・レジデンス』他の部屋の照明はすべて確認できたが、七階だけは点灯しておらず真っ暗なのを見て、さらに足を早める。
こんなに気持ちがはやるのはいつぶりだろう……
いや、大人になってからは
感じたことがなかったのかもしれない
思えば灰色の景色の中で必死に生きてきたような気がする。
生きることに、そして上を目指すことにも義務感を感じながら過ごした思春期は、大人になってた今も完全には拭いきれなかった。
それが今、こうして色を帯びた日々を体験し、毎日の生活に活力を感じている。
人を愛すること、受け入れ、受け入れられることの喜びを知ったのは、人生で初めてだと思った。
大通りの信号待ちをしながら『RUDE Bar』に目をやる。
手にしている幾つかの紙袋のなかには、波瑠の好物の焼き菓子も含まれていた。
波瑠にはちゃんと話さなきゃな。
わかってはいても、先送りにしたい気持ちが否めなかった。
波瑠がかれんに向ける視線が、回を増すごとに変化しているのをは薄々感じていた。
俺は、ズルいよな……
目を背けるように渡りきって、コンビニに目をやる。
川縁で夜桜を愛でながら佇むかれんに、文句を言われることを承知でわざわざ肉まんをチョイスした自分の子供っぽさを、今では恥ずかしく思う。
あれで気を惹いてるつもりだったか?
ガキかよ?!
めちゃめちゃダサいな、俺。
川上から吹く風を向かい打つかのように、健斗はかれんの待つ自宅へ向かってまた速度を上げて歩きだす。
アパートのエレベーターを降りて、すぐにインターホンを押した。
反応がないことを不審に思いながらも、暗証番号をプッシュして部屋に入る。
ドアを開けると白いヒールがきちんと置かれているのを見て安堵した。
「かれん、ただいま!」
そう言いながらスロープを上がり、出迎えのないままダイニングに到着した。
「かれん? どこだ?」
ダイニングチェアーにはかれんのバッグが置かれている。
今日もその取っ手には三つの星が連なったお守りのキーチェーンがしっかりと付けられていた。
健斗もその横のチェアーに荷物を置いて、辺りをキョロキョロとうかがっう。
テーブルにはカップまで用意され、キッチンにおかれたコーヒーミルには、まだ豆が挽かれていない状態でセットされていた。
一体どこに行ったんだ?
「かれん、かれん!」
大きな声で呼びながら各部屋を手前から開けて回る。
「かれん、かくれんぼか? そんなのいいから、早く出てこいよ!」
パントリーも、クローゼットも部屋もバスルームも見て回り、書斎の前まで来た。
扉を開けると電気が点いている。
「ここだな」
もしこの家に居るなら、もうここしかない。
きっと、本に夢中になって、時間を
忘れてしまっているんだろう。
それにしても、俺が呼んでも
返事しないなんて……
妙な胸騒ぎに、螺旋階段をかけ下りた。
「かれん、どこだ! かれん!」
電気がついているライブラリーは、人気がないような静けさだった。
「かれん、居るよな? かれ……」
健斗は息を呑んだ。
木製のキャビネットの向こう側に、投げ出されたようにスリッパが転がっており、すぐ横に白い足が見えた。
健斗は慌てて駆け寄る。
「かれん! どうしたんだ!」
声をかけても反応がなく、健斗は震える手でかれんの息と脈を確認した。
「おい! 目を開けてくれ! かれん!」
外傷があるようには見えなかった。
熱があるわけでもなく、むしろ体温が下がっているようにも思えた。
とにかく意識がない。
健斗はかれん抱き上げて、もと来た階段を駆け上る。
足で荒々しく寝室のドアを開け、彼女をベッドに下ろした。
熱がないか、体温が下がりすぎていないか確認し、呼吸と脈も確かめた。
「かれん……どうしたんだ! 目を覚ましてくれよ……かれん!」
かれんが表情を変えた。
「……うん……」
「かれん! 気がついたか?!」
「私……頭が痛く……」
うわ言のように言葉を発するかれんの手を握ると、かれんの意識がだんだん戻ってきた。
「よかった……目を覚ましてくれて……」
「健斗……」
「心配した……なにがあったんだ?」
「わからない……でも、あのライブラリー……」
また息が早くなって、かれんは苦しそうに眉をしかめる。
「かれん!」
「だ……いじょうぶ……ごめん……ね。健斗も疲れて帰ってきたのに……」
「なに言ってんだ! こんなときに!」
そう言いながらもなす術がないことに焦りを感じる。
ぽつりぽつり話をしながらも、さっきからこんな容態を繰り返しているかれんは、どんどん消耗してるようにも見えた。
クソッ、どうしたらいいんだ!
なんとかしてやらないと……
健斗は時計に目をやる。
時計の針は午前0時を回っていた。
「かれん、飲み物を持ってくるよ。脱水状態かもしれないしさ」
そう言って健斗はキッチンに早足で向かいながらも、意を決してスマートフォンを耳に当てた。
「もしもし……」
三十分もしないうちに、インターホンが鳴る。
そっと部屋を出た健斗は、飛び付いて開錠した。
第63話『はやる心』- 終 -




