第62話『So looking forward to』
第62話『So looking forward to』
彼が不在のこの三日間は、とても長く感じた。
恋をすると、時間感覚が著しく狂う。
その影響力の凄さに、かれんはただただ驚いていた。
しばらく恋をしてなかったもんね。
こんな感覚、すっかり忘れてた。
健斗のライブラリーから少々難しい本も借りていたので時間をもて余すことはなかったが、ただ、寂しい気持ちが埋まることはなかった。
「今日はやっと彼が帰ってくる!」
以前の自分なら、夜遅くに帰宅する彼を労って、翌日に会う提案をしたのだろうと思う。
でも昨夜の健斗からのメールに、帰ってくる時間と玄関ドアの暗証番号が書かれているのを見てからは、もう心を止められなかった。
誰もいない部屋に鍵をかけて、かれんはマンションを出た。
少し蒸し暑さを感じながら、川沿いの道を北へ向いて進む。
大通りを渡りながら、チラッと『RUDE Bar』に目を向けた。
波瑠の愛らしい笑顔がフッと浮かんでくる。
健斗と親しい波瑠には、ちゃんと交際を告げなくてはならないだろう。
そう思うと、少し心苦しさを感じた。
いつものコンビニを横目に歩いていくと、借りた本を入れたカバンがその重さで肩に食い込んだ。
ちょっと欲張りすぎたかな?
微笑みながらカバンを覗くと、一番重たいであろう『原石図鑑』が目に入る。
この図鑑が思いの外かれんの中でヒットして、この三日間は何度も眺めていた。
美しい緑や黄金の石が並んでいるのを見ると、健斗のライブラリーのステンドグラスを思い出す。
ノスタルジックなアパートメントの一番置くまで入り、エレベーターに乗り込む。
三階に着くとすぐ側の豪華な扉の暗証番号をプッシュして部屋に入った。
一括して照明もつけられ、パッと広く明るい玄関が現れる。
スリッパがちょこんと中央に置かれているのを見て、かれんは微笑む。
なーんだ!
最初から私に待っててもらおうって
思ってたのね!
空調もワンタッチで適温に設定されるらしい。
かれんは緩やかに上がっていく廊下を進む。
ここまで便利な生活をしていたら
他のことを不自由だって
感じるんじゃないかしら?
明るいダイニングにカバンを下ろすと、早速キッチンで手を洗った。
「さて、コーヒーでも用意しますか!」
コーヒーミルに豆を入れて、すぐに挽ける状態にし、ペーパードリップをセットする。
カップをテーブルに出したところでスマホが振動した。
健斗から〝あと三十分程で帰る〟と連絡が入った。
心がはやる。
早く声が聞きたいと思った。
あと少しの時間が待ちきれなくなったかれんは、それを紛らせる為に今のうちに本を返却しておくのもいいかと思い付き、一人ライブラリーへ向かった。
カバンから取り出した重い本を抱えながら、リビングの階段を介してあちら側の廊下へ入る。
突き当たりのドアを開けると、あの螺旋階段が現れた。
ノスタルジックな光に吸い込まれていくように階段を下りながら、その美しいステンドグラスを愛でる。
何だか心ときめくような、不思議な気持ちになった。
広い室内を巡りながら、抱えた本を一冊ずつ、記憶を頼りに返却する。
また借りたい本を
見つけてしまいそう!
そう思いながら、最後の『原石図鑑』をしまうために低い棚を覗き込んだとき、気になる本をみつけた。
「わぁ、絵本! 『Live in the Forest』?」
美しい絵本だった。
開いてみると、誰かが手を加えたのだろう、洋書の絵本に手書きの美しい字で日本語訳が書き込まれている。
リスの優しい表情、森の息遣いが聞こえてくるような鮮やかな色彩だった。
「わあ、きれい……」
そう口にしたとたん、不意に頭を殴られたような衝撃が走った。
「うっ……」
絵本を落として、頭を抱えたかれんは声も出せないままその場にうずくまった。
「あ……」
頭が割れるように痛い。
だんだん目が霞んで来るのを感じた。
ステンドグラスはぼやけているのに、脳裏にははっきりとした映像がフラッシュカードのように急速に変化しながら映し出される。
太陽と雨の妖精
空に七色の橋
ステンドグラス
光の差す方を指さして……
一体、なに?!
なんなの?
乗り物酔いのように気分が悪く、もう体を動かすことさえ出来なくなった。
もうすぐ……
彼が帰ってくるはず……
うずくまったまま、声を振り絞って彼を呼ぼうとした。
「健……ああっ!」
そう叫んだ瞬間、今度は心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走り、かれんはその場で意識を失った。
第62話『So looking forward to』- 終 -