第59話『胸騒ぎの夜』
第59話『胸騒ぎ』
波瑠は自宅アパートの敷地から右手に折れ、いつものように川沿いの道を大通りに向かって下っていく。
このアパートに住み始めたのは二年前。
『RUDE Bar』で働くことが決まったとき、バイトなのにも関わらず〝福利厚生の一環だ〟と、オーナーは居住する部屋も斡旋してくれた上にほぼ光熱費のみで住まわせてくれると言った。
案内されたのは、外観が周囲の高級住宅街とかなりミスマッチな、昭和の香りが残るノスタルジックなアパートメント。
なるほどこれがタダで住まわせてもらえる理由かと思いきや、部屋の中に入ると驚くほどモダンなイメージにリノベーションされていて、モデルハウスさながらの家具付き物件だった。
自分が学生として通う大学の准教授でもあるオーナーは、歯に衣着せぬ物言いで時折〝悪絡み〟してくることもあるが才能豊かで、そのわりに単純な人種でもあり、ある意味扱いやすい。
いつの間にか兄弟のように親しい間柄になっていた。
階上に住むこの准教授は行動パターンすらも単調で、大学にいないときはほぼ自宅で論文を書いているか『RUDE Bar』で油を売っているかだったが、ここ最近はその端麗な容姿のせいでモデルとして駆り出されたりしているので、自分の知るところではない時間が増え、少しずつオーナーと店子の関わるタイミングに変化が現れてきていた。
すっかり青々とした川縁の桜並木を、波瑠は妙な胸騒ぎを抱えながら足を運ぶ。
昨日の昼間、いつものように遅い朝食を終えて、買い出しに出ようとドアを開けると、玄関のすぐ横にある、いつもはあまり稼働していないエレベーターが動いていて、三階に停まったのを目撃した。
その時、かすかに階上のインターホンの音が鳴ったような気がして、思わず通路から空を見上げる。
もちろん見えるはずもなく、来客だったのか、はたまた宅急便業者だったかは定かではなかったが、波瑠が鉄の階段で一階に降りたときも後ろから誰かが出てくるわけでもなく、アパートの前に業者の車もなかった。
「宅急便業者があのエレベーター使ってるのは見たことないけど……まぁ、健斗さんもずっとカンヅメで論文書いてるってわけにもいかないだろうし、自分で買い物にでも? にしても……インターホンはないか……」
ほどなく到着した『RUDE Bar』の看板を【OPEN】に掛け変えて、店内に入っていった。
このところ店は繁盛していて、常連客もずいぶん増えた。
時折波瑠の同級生や、サークルに行っていたときの友人も顔を見せてくれる。
今日もひとしきり楽しい顔ぶれと愉快に会話しながら時を過ごし、改めていいバイトだと思いながら、ふとこのところ姿を見せないオーナーを気がかりに思った。
客足がすっかり引いたところでドアチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませ」
そう言って階段を仰ぐと見覚えのあるシルエットが確認できた。
「レイラ。こんな遅い時間にどうした?」
レイラは不貞腐れたような表情で、一段ずつゆっくりと降りてくる。
「なんだその顔」
「テキーラちょうだい」
レイラはいつもの席に座って頬杖をつく。
「なに言ってんだ! そんなに酒も強くないくせに」
「いいから! 飲みたい気分なのよ」
波瑠は肩をすくめる。
「自分の酒癖、知ってんだろ? 付き合わされる身にもなってよ! 前も健斗さんをてこずらせたみたいだし。それに、もうけっこう飲んできてるんじゃないの?」
波瑠はレイラの前にオレンジ色のグラスを置いた。
「なにこれ? お酒入ってるの?」
「ああもちろん、入ってるよ」
レイラは、一気にグラスをあおる。
「なかなか……美味しいじゃない……」
「ファジーネーブルだよ。気に入った?」
バツの悪そうな顔のレイラに波瑠は微笑みながらカウンターに肘をついた。
「で? どうした?」
レイラはうつむき加減のまま口を開く。
「ねぇ、この川沿いを上がってさ、波瑠の家よりももうちょっと北に、バルがあるの知ってるでしょ?」
波瑠は頷く。
ああ、『アストゥリアス』だろ? スペインバルの。ボクもたまに行くよ」
「そう。さっき大学の友達と話してたんだけどね、その子が昨日の夜、その店に行ったんだって。そこで藤田准教授を見たって……」
「へぇ。健斗さんもわざわざ外に出て飯食ったりするんだ? 一人で論文書いてるから、てっきりテイクアウトばっかりかと思ってた」
「違うわよ」
「何が?」
「一人じゃないってこと」
胸騒ぎがした。
「一人じゃないって? なら……誰と?」
「分からないけど、でも……女の人と一緒だったって」
「えっ、どんな?」
「どんなって……その子に聞いてもわからなかったけど……綺麗な大人の人としか言わなかった。遠目だったけど親密な感じがしたって言ってた」
二人が同時にうつむく。
「ねえ……かれんさんだと、思う?」
「……どうして?」
「今、波瑠の頭にも浮かんだでしょう? かれんさんが……」
「そ、それは……他に健斗さんの知り合いを知らないから……」
「やっぱり浮かんだのね。波瑠の頭にかれんさんが浮かんだんだったら、多分そうよ。そんな気がする」
「そ、そんな確証のないこと……ほら、健斗さん、モテるし、学生にいつも誘われてるじゃん」
「健ちゃんは教え子とプライベートを過ごしたりしないわ。学生で二人きりで会えるのは私だけよ」
「じゃあ『ファビュラス』の他の人かもしれないし、大学の教員仲間っていうことも考えられるんじゃ?」
「健ちゃんがそんなに付き合いのいい人間じゃないって、知ってるでしょ? やっぱり……あの二人、付き合いはじめたんじゃないかなって……」
「なんでそうなるんだよ」
「じゃあ波瑠は、あの二人がこのままずっと平行線のままでいくと思ってた?」
「それは……」
「私はね、いつそうなったっておかしくないって思ってたわ。だから……怖かったのよ」
波瑠は肩を落として反論をやめた。
「嘘だろ……」
俯く波瑠に、レイラが問いかける。
「確認だけど……」
「なに?」
「波瑠のかれんさんへの気持ちは、変わってない?」
「……ああ、むしろ強くなってると思う」
「そう……かれんさんはその事は?」
「気付くわけない。気の利くバーテンだとしか思ってないよ」
「そんなことないんじゃない? 四人で食事に行った日に、かれんさん言ってた。〝波瑠くんと話すとホッとする〟って。〝カッコいいからモテそう〟とも言ってた」
「からかうなよ!」
「からかってなんか……ないわよ」
レイラも思い詰めたような表情になった。
波瑠は大きく息を整える。
「なぁ、まだ何の事実もわかってないうちから、落ち込んでもしょうがないよ。もし大切な人ができたら、健斗さんはちゃんとボクらに話すはずだし」
「そうね。話しづらいだろうけど」
「まあ……ね」
「それを待つしかないのかな、私たちって」
二人は同時にグラスを持ち上げ、中身を飲み干すと、ほぼ同時にカウンターに置いた。
「今日は飲もう! 飲まなきゃやってられないわ」
「ああ、そうだな……じゃあ、まだ時間は早いけど、店じまいしようか!」
「うん、しちゃえしちゃえ!」
波瑠がプレートを【CLOSED】に変えるために階段を上がろうとした瞬間、ドアチャイムが鳴った。
「こんばんは」
「あ……」
第59話『胸騒ぎの夜』- 終 -