第58話「モーニングコーヒー』
第58話『モーニングコーヒー』
まぶしい光に包まれている。
あれ、昨日の夜はカーテン閉め忘れたかな?
白いシーツに包まれていることに気が付いた。
私のベッドじゃない……
身体を右に向けると、同じシーツを纏った美しい彫刻のような顔が、スヤスヤと寝息をたてていた。
健斗……
彼の左腕はかれんの首の下ある。
少し冷たくなったその肩に顔を寄せた。
彫刻の目がうっすらと開き、かれんをとらえる。
「……俺が先に目覚めて、かれんの顔を見つめたかったのに……」
健斗はゆっくりと半身を起こし、かれんに向き合った。
するりと滑るシーツから露になった男らしい右腕が、かれんの方に延びてくる。
健斗は彼女の耳の後ろに手のひらを差し込んで顔を近づけると、熱い視線で見据えた。
「ずっとこんな朝を願ってた」
頬にかかる髪を長い指でなぞる。
「かれん」
そう言って首に手をまわすと、グッと引き寄せてその胸に抱き締めた。
髪を撫でた大きな手で顔を包み、その親指でかれんの唇に触れる。
「キスしていい?」
昨夜も聞いたその言葉。
頷くと彼の少し冷たい唇が触れる。
何度も重ねるうちに唇は熱を帯び、胸の鼓動と合間って息苦しささえ感じる。
「かれん……」
再び顔を眺め、見つめ合う。
「おはよう。やっと言えた」
「かれん……」
「ここにいるわ」
かれんがそう言って微笑むと、また抱き締められた。
「今日は一日中、ここでこうして過ごしたい」
かれんはクスッと笑う。
「ダメよ、今日は大事な会議があるんでしょ? 私もよ」
健斗はあからさまに、大きなため息をついてみせる。
「えー、家から出たくないよ」
「なに子供みたいなこと言ってるの!」
二人は同時に吹き出した。
「コーヒー淹れて来るよ。腹も減ったろ?」
「人を〝食いしん坊〟みたいに言わないで!」
「はいはい。あ、こっち見るなよ」
「み、見てないわよ!!」
かれんの髪をくちゃっと撫でて、健斗は部屋を出ていった。
シーツから顔だけ出して、部屋を見回す。
カーテン越しに明るい日差しを感じる。
外は清々しい晴天に違いない。
かれんはベッドから足を下ろして窓辺に向かった。
少しだけ開けてみたカーテンの向こうには、真っ青な青空と夏の到来を感じるような雲が浮かんでいる。
その空に負けないほど、晴れ晴れしている心を確信して、かれんは幸せを噛みしめた。
入念に身なりを整えて部屋を出る。
リビングを介してダイニングにたどり着くと、コーヒーの香ばしい香りが立ち込めていた。
「なぁかれん、やっぱり今日の打ち合わせ、二人で欠席しない?」
「ええっ? ダメに決まってるでしょ! あなただってせっかく論文を書き上げたんだから、ちゃんと〝教授会〟に出ないとマズいって、昨日も言ってたじゃない」
「チッ、残念だな……」
健斗のその拗ねた表情に、また笑いが込み上げてくる。
「なんだその顔は! あ、そうだ! もう俺をフルネームで呼ぶなよな!」
「わかってるわよ。あ……でもやっぱり無理!」
「え、なんで?!」
「今週、クライアントも交えた打ち合わせがあるわよね? 私達、同席なのよ! そんな急に……あー無理無理! あなただって、人前で急に〝かれん〟なんて呼べるわけないでしょ?!」
「ま、まあ、確かに……」
「とりあえずしばらくは、普通に今まで通りを装って! 由夏と葉月だけは分かってくれてるから、いいでしょ? 周りの人に対しては……隠したいって訳じゃないけど、でも若者みたいに分かりやすいのはイヤなの」
「そうだな、俺もだ。かれんも立場があるしな。まぁ俺たちは俺たちのペースで、ゆっくりすすめて行こう。じゃあさ、提案なんだけど……」
「なに?」
健斗が妙な表情で、かれんの耳元に口を寄せた。
「進展するのは二人きりの時だけなんだよな? じゃあ……今からもう一度寝室に行って、俺たち、〝進展〟するのはどう?」
かれんは健斗の身体を押し戻した。
「もう! なに言ってんの! 階段から突き落とすよ!」
「おお、怖っ!」
二人はまた大笑いする。
「このコーヒー、美味しい!」
「お! わかるか? パナマ・ゲイシャって銘柄でさ、フローラルなフレーバーでかれんにの好みにも合うかなと思って。とある人から教えてもらって、本場のエスメラルダ農園から取り寄せてる高級品なんだ!」
「そうなのね! 確かに初めての味だわ」
「波瑠なんて、一度豆を分けてやったらハマっちまってさ。アイツ、『RUDE Bar』で客には出さずに、一人で淹れてはチマチマ飲んで楽しんでるらしい」
「波瑠くんは舌が肥えてそうだもんね」
「ああ。挽きたてだと、なお美味いだろ?」
「ええ。私もハマりそう」
「ああ、いつでも淹れてやるよ。でもせっかく早起きしたしさ、それ飲んだら外にモーニングに行かないか?」
「うん、いいね!」
身支度を整えて、玄関までの緩やかなスローブの廊下を下る。
「ホントだ! 三階の玄関からリビングまではこうやって少しずつ上ってたのね」
「ああ。俺も基本は理工系だからね、建築も興味はあったんだ」
「面白い!」
「だろ? またここの構造を解説してやる」
「うん。でもね、面白いのはあなたよ」
「は? 俺?」
「うん。あなたを知ることが、不安じゃなくて、ホントに楽しみになってきたの」
健斗が後ろから、ぎゅっと抱き締めた。
「俺もだよ。かれんのこと、もっと知りたい」
朝の清々しい日差しが二人を包む。
ただ二人並んで歩くことがこんなにも幸せな気持ちを呼ぶなんて、知らなかった。
健斗がかれんの手を繋ぐ。
「ダメよ地元で! 誰かに目撃者されるわ」
「じゃあ次の角まで」
二人の指先が絡み合った。
「このお店ね、ワッフルが美味しくて気に入ってるの」
「俺は一階のカウンターでコーヒー飲んだことしかなかった。二階もあったんだな」
急な木の階段をギーギーと音を立てて上る。
ノスタルジックな空間が広がっていた。
行楽日和のせいか、他に客は居なかった。
「また貸しきったんじゃないでしょうね?」
「バカなこと言うな!」
「ふふ」
一番奥のソファー席に通される。
ミニテラスを眺めるペアシートだった。
「カップル専用席みたいだな……」
「うん。さすがにこの席には座ったことないわ」
「ホントか? 誰かと来てイチャついてたりとか?!」
「してるわけないでしょ!」
「はいはい、すみません」
健斗はそう言いながらも照れ臭そうに並んで座る。
さっそくワッフルセットを注文し、テーブルに届くとかれんはすっかり上機嫌で、顔をほころばせた。
「やっぱり美味しい!」
「そんなに腹減ってたのか? まぁ、そりゃそうだよな、昨日の夜はあんなに……」
かれんがキッと健斗を睨んだ。
「それ以上言ったら殺す!」
ナイフを向けられて健斗はたじろいぐ。
「怖っ……す、すみません」
紅茶をすするかれんの横顔に問いかける。
「で、よく来んのか? ここ」
「ええ、この前はママと来たわ」
「へぇ、お母さんってどんな人?」
「そうね、しいて言うなら自由な人。完璧に子供から自立してるって感じ」
「ふーん。あのマンションに一緒に住んでるんだろ? でもいつも居ないって言ってないか?」
「そう、いつも居ないのよ。ギャラリーとブティックやってるんだけど、買い付けっていう名目で海外に行ってばかり。まあお陰で、会ったときは新鮮に母子とも楽しめるけどね」
「そんなもんか?」
「うん。健斗のお母さんは」
「いない。俺が十才の時に病気で亡くなったんだ」
「え……そうだったの。小さいのに……辛かったね」
「そうだな。でも、家族ぐるみで仲良くしてた家があってさ、そこのおばさんがお母さんみたいに接してくれたんだ」
「そっか」
「いつかかれんのお母さんに会えたらいいな」
「そうね。でもね、ホントにいつも居ないのよねぇ。そういえば前にここに来たときも、食べた後は私をおいてさっさと友達との約束があるって言って、どこかに行っちゃったのよ! で、その後偶然、宗一郎さ……」
咄嗟に口をつぐんだかれんは、上目遣いでゆっくりと健斗を仰いだ。
「待った! なんだ? 〝そういちろうさん〟って?」
「えっと……あま……」
健斗が大袈裟にかれんを指差す。
「ああっ! 天海先生のことだな! そうだそうだ! 思い出したぞ! 天海先生の車から降りるかれんを目撃したんだった!」
「え? いつ? 昼?」
「夜だ! 夜! 『RUDE bar』から出るところで、ドア開けたらちょうどかれんが天海先生の車から降りたのが見えて……」
健斗は呼吸を整える。
「かれん……いったい何回、天海先生とデートしたんだ?!」
かれんは眉を上げながら平静を装う。
「そんなこと……その時の健斗には関係ないじゃない」
「今は関係あるだろ! 今後もな!」
「わかってる。天海先生は紳士的よ。私に好意は持ってくれているのはわかるけど……踏み込んできたりしない人よ」
「それは……何となくわかる」
「そうでしょ? ちゃんと友達になるから! 少し時間をくれる?」
「……また二人で合うのか?」
「必要とあらばね。仕事の仲介をしてもらっているの。お友達の経営するレストランを紹介してくれてね。そこには近々、あなたもレイラちゃんと一緒に出演予定よ」
「ああ、前にレイラが行ってたな。この近所のレストランのブライダルフェアか……?」
「そう。だからその仕事が終わったらちゃん話すから」
健斗が頷く。
「もちろんいいよ、俺たちは大人だから。でも……」
そう言ってバッとかれんの方を向いた健斗は、彼女の腰をグイッと引き寄せた。
「でも、少しでもほかのオトコに気を許したら、ただじゃおかない……」
そう言うと、もう一方の手をかれんの頬に這わせ、強引なキスをした。
そのままソファーに押し倒す。
長いキスをして、そっと唇を離した。
「そんなおびえた顔をするなよ。俺は野獣じゃないぞ!」
かれんの身を起こしてやり、髪を整える。
「ほら、おいで」
今度は肩を抱いて髪を撫でた。
かれんもゆったりと健斗の肩に頭を寄せる。
「いいよな、嫉妬も。こんな気持ちになれるってさ」
かれんの瞳が健斗を捉えて、こくっと頷いた。
健斗はそっと頬に手を伸ばし、今度は穏やかで優しいキスをした。
第58話「モーニングコーヒー』- 終 -