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第55話『謎めいた部屋』

第55話『謎めいた部屋』


マンションから大通りに出てコンビニから北向きの道を見上げると、夏の匂いのする風がサァーっと吹き抜けて、かれんの白いスカートを揺らした。

川沿いの木々が力強く両腕を広げ、太陽を仰ぐ姿に生命力を感じる。

耳を澄ませると、心地良い川のせせらぎとともに水鳥のさえずりが聞こえてきた。

地面の照り返しが少し頬を熱くして、夏の訪れを告げる。

ノスタルジックなアパートメントに到着すると、彼に案内された日を思い出しながら奥に進み、かれんは乗り込んだエレベーターを降りた瞬間から、緊張し始める。

インターホンを押す指が少し震えた。


「かれん、入って」


インターホン越しのその声に、少し気持ちが和らぐ。

暗証ロック付きの近代的な玄関ドアを開けると、大理石の床の空間が広がっている。

靴を脱いで揃えるも、まだ健斗は出てこない。

そこからダイニングまでの廊下は(ゆる)やかなスロープになっていて、左手にある大きな窓から見える裏山の木々は、まるで一面の絵画のような風格を(かも)している。

廊下を上りきって部屋の入り口に足を踏み入れたとき、ようやく健斗が姿を見せた。



   なんだ、電話中だったのね。



彼は笑顔で頷いた。

スマートフォンを手に、流暢な英語で会話しながらグラスを出し、ペリエを注いでかれんに渡す。

リビングのソファーを指差して〝どうぞ〟と促しながら片手を上げた健斗は、そのまま片目をつぶってかれんに〝ゴメン〟と合図をし、リビングを越えて奥の部屋へと消えて行く。

話の内容からして、電話の相手はアメリカの大学の事務局、若しくはエージェントといったところかと推察できる。

『Master of Business Administration』というワードが出たということは、健斗も本格的に『JFMホールディングス』のCEO就任に向けての準備を始めているのだろう。


広くて快適な空間。

かれんはあらゆる角度で部屋中を眺める。

なんとも斬新な造りだった。

由夏に閉め出されてここに来たあの夜もかなり驚いたが、昼間に見るとまた違う印象を受ける。

かれんがかけている『コルビジェ』の純白のソファーは、すり鉢状になった階段を下った円形のスタジアム型の底面にあるリビングにあり、下に降りた分、更に天井が高い。

リビングテーブルの横に置かれた黒いカッシーナの『シェーズロング』も陽の光のもとでは爽やかで、シックな夜のムードだったあの時の雰囲気とはまた違う顔を見せる。

リビングの大きな窓は天井まで切り立っていて、その高低差は圧巻だった。

まるで天窓のように陽の光をたっぷり取り込んで、日中は照明を必要としないほどの明るさだった。

健斗が階段を上っていくように歩いて向かった廊下側の壁は、白く大きなキャンバスのようで、その壁の中腹にはポツンとバスケットゴールが装着されている。

その下には『molten』のバスケットボール籠が置かれていて、そこには同じく『molten』のやや小さめのバスケットボールがいくつか入っていた。

大人の遊び心満載の空間、一体彼はここでどんな暮らしをしているのだろうと、興味をそそられる。

ひんやりしたソファーが心地よくて、かれんは大きなクッションに甘えるようにもたれ掛かかった。

遠くでかすかにバリトンボイスの英語が聞こえる……


「かれん? あれ? 寝ちゃったのか?」


会話の終わった健斗が電話を片手に、戻ってきた。

ソファーの隣に座っても、かれんは眠ったままで、健斗はクスッと笑う。

顔にかかる髪をそっと耳にかけ、白い耳たぶを少し引っ張ってみる。


「起きねぇな」


無防備な彼女を見て微笑む。

長い睫毛と、艶やかな唇に視線を移すと、トクンと自分の心臓の音が聞こえる。

まるでとんでもない宝物を見つけてしまったような胸の高鳴りが、おさまらない。

健斗は寝室からブランケットを持ってきて、そっとかれんの身体にかぶせた。



   あれ、寝ちゃったのかな? 私……



起きようとすると、肩からブランケットがハラリと落ちる。


さっきまで明るかった室内が、落ち着いた色合いに変化していた。



   健斗がかけてくれたのね。



辺りを見回して彼を探す。

ソファーから目線をあげたその先に、彼はいた。

ダイニングテーブルに開いたノートパソコンを静かに打ち続けている。

横長の黒淵メガネが新鮮で、しばらく眺めていた。


 バチッ


   あ、今enterを押した。



 左手を握って口元をトントン叩き始めた。

 視線は依然として真剣なまま……



   あ……文章に行き詰まったのかな?



手が止まって、そのまま椅子にもたれて天井を仰いだ彼はしばらく凍り付いたように静止している。


   どうしたのかしら?



不意に眉を上げた彼が画面に目を移す。

そしてコクンと一回頷くと、高速スピードでタイピングが始まった。

メガネにかすかに映るモニターの光の奥には真剣な眼差しがあった。

それはこれまでに見たことがない、数学者の顔だった。

カチャカチャカチャという音が、またしばらく流れ、またバチッというenterの音と同時に「よしっ!」と彼が発する。

かれんはもう我慢できずに吹き出してしまった。


「なんだよ! かれん、起きてたのか?!」


「うん」


「言ってくれたらいいのに!」


「あなたを見ていたくて」


「そんなのいつだって見せてやるよ。ねぇ、寒くなかった?」


「うん。これ、かけてくれてたから大丈夫」


ブランケットをたたんでソファーに置いたかれんは、彼のいるダイニングへ向かって階段を上っていく。


「座れよ、今コーヒー淹れる」

そう言って椅子を引いてくれる。


カップを二つ取り出して、メガネを外そうとする健斗の手を、かれんはすっと立ち上がって止めた。


「ん? どした?」


「視力、悪いんだっけ?」


「いや、これはブルーライト用のメガネだよ。長時間パソコンと向き合うだろ、だからかけてるだけ」


「そうなんだ?」

かれんはじっと見つめる。


「なんだよ」


「メガネのあなたも、なかなかいいなと思って」


健斗は一つ息をつく。

「そうなんだってな。俺の研究室に来る学生もさ、入ってきて俺がメガネかけてるとキャーキャー言って、取ったら取ったでまたキャーキャー。結局どっちだっていいんだろう?」


かれんは上目遣いで彼を(にら)んだ。

「今、密かにモテ自慢したでしょう?そんなのに嫉妬なんてしてあげないわよ!」


そう言ってかれんはリビングに降りていくと、ソファーにどっかり座って、たたんだブランケットの上に半身寝転んだ。

健斗は笑いながら、コーヒーを淹れたカップを二つ持って下りてくる。


「本当に嫉妬するなよ!」


「してないし!」


「まあまあ、これ飲んで!」

マグカップをテーブルに置いて、かれんのとなりに腰かけた。


「おいかれん! いつまでもそんな風にしてたら、襲っちまうぞ!」


慌てて起き上がるかれんに、健斗は少し辟易(へきえき)とする。


「なに慌ててんだ?! ケダモノ扱いするなよな!」


二人は顔を見合わせて笑った。


「美味しい。いい香り」


「それ飲んだらさ、俺の書斎に連れてってやるよ」


「それって前に波瑠(はる)くんが言ってた〝ライブラリー〟?」


「そう。ちょっと驚くぞ! 本物の図書館みたいだからな」


かれんがカップを置きながら部屋の中を見回す。

「ここの造りってかなり複雑ね、私、まだ全然把握できてないわ」


「ああ、本来は四階建てだったのをぶち抜いてるんだ。デザイナーが優秀だし、俺も設計に加わった。だからこんなにセンスのいい空間が出来たんだ」


「この作りは圧巻ね。お金かかってるって感じ」


「おい! それを言うなって!」

健斗は少しイヤな顔をして見せる。


「ここの階段はなぜスタジアム型なの?」


「実はさ、このダイニングがせり上がってるのは、あそこに床下収納があるからなんだ。ほら、あのスクリーンのすぐ下に、扉が見えるだろ?」


かれんが目を丸くする。

「ホントだ! じゃあ、あのダイニングの下とこの階段の下が……」


「ああ、天井の低いウォークインクローゼットになってる。な? 面白いだろ?」


「うん、凄く!」


「まだあるぞ、あのバスケットゴールの壁の向こう側の部屋は、縦に二層構造になっててロフトがある」


「へぇ……」


「おまけにその奥の寝室とバスルームの下の層に書斎があるんだ。今から案内してやるよ。俺の設計力を見せてやるから」


得意気な健斗の表情に笑いだす。

「ふふ。依頼したデザイナーさんの器量でしょ?」


「ちがう! 俺の才能だ」


「ふふふ。いつもの藤田健斗だわ」


「あ! こら! 二人の時はフルネーム禁止だろ!?」


「あはは、わかったって!」

手首をつかまれたかれんは、牽制しながらも朗らかに笑った。



第55話『謎めいた部屋』- 終 -

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