第49話『Chemistry between two』
第49話『Chemistry between two』
ホテルの広い大宴会場の片隅で、列席している女性たちの歓声にふと顔を上げたかれんは、その目を疑った。
「えっ……」
持っていたグラスをこぼしそうになって、慌てて近くのテーブルに置く。
息を飲むように、もう一度そちらに目をやると、ステージの端に長身のスーツ姿の男性が立っていた。
クラシカルなスーツを身にまとい、凛とした表情で正面を向いたその顔は……
紛れもなく〝藤田健斗〟
彼だった。
ほどなく、彼の隣りにいた初老の男性が壇上のマイクの前に着くと、MCから〝『JFMホールディングス』会長の藤田公彦氏〟と紹介された。
ここにきて、また新しい事実を目の当たりにしたかれんは混乱する。
藤田健斗という人物に出逢ったあの日から、再会した日の驚き、彼の素性を知った時の動揺、そして助けの手を差しのべてくれた数々の出来事が頭の中にフラッシュバックする。
そこに更に、新たな真実を今、突きつけられたような気がした。
結局、彼のことはなにも知らなかった。
何も、わかっていなかった。
とにかくここには、いられない……
かれんは会場内を見回して父を見つけ、小声で〝急用ができたので帰る〟と告げた。
少し寂しそうな顔をしながらも、父は〝ママによろしくな〟と微笑む。
かれんはいそいそと会場を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
かれんを見送る父、東雲亮一の横に藤田公彦がやってきた。
一緒にかれんの後ろ姿に優しい視線を送る。
「なあ東雲、彼女すっかり大人になったな。さゆりさんにそっくりだ」
「そうだな。年々似てくるんだ」
「さゆりさんは?」
「ああ……彼女には、何年も会ってない」
藤田公彦は沈痛な面持ちで空を仰ぐ。
「東雲……今でも思うよ。あの時、どうにかなっていたら……未来は変わっていたのかなと……」
東雲亮一ははたと顔を上げる。
「藤田! それは言わない約束だろ?」
「本当に……すまない」
「やめろよ、もう十五年も前の話だ。彼らは子供だったし、私たちも若かった。それに、誰のせいでもないじゃないか」
「でも……さゆりさんとはあのままなんだろ? それに、あの子はまだ……本当にすまない」
東雲は藤田の肩を叩く。
「藤田! これからは健斗くんが『JFM』を作っていくんだろ? 私達もまだ、新しい世界を見られるさ。なあ、お互い、前を向いて未来に希望を持とう!」
「……ありがとうな、東雲」
「なに言ってんだ、今日は祝いの席だぞ」
二人は肩を叩き合いながら、颯爽と歩きだす青年に視線を向け、その目を細めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
かれんは会場から足早に出て、乱れた呼吸を整える。
どうしてまた新たな問題を
突きつけられているんだろう……
どうしてこんなに
動揺してしまうんだろう……
廊下には誰もおらず、かれんは一人絨毯の上をフラフラと歩いた。
少し飲みすぎたのもあって、頭痛もし始めている。
クロークで手荷物を受け取って、なんとかエレベーターホールに向かい、到着したエレベーターに一人乗り込む。
大きく息をつきながら扉が閉じるのを待っていると、その閉まりかけのエレベーターに飛び込んでくる人影があった。
「えっ!」
中に入ってきた影が背中を向けたまま、扉が閉まる。
「藤田……健斗……」
その大きな背中を見上げて呟く。
彼は背中を向けたまま、静かな声で尋ねた。
「ここへは、どうして?」
「フ、ファビュラスの営業よ! あなたこそどうして……いえ、愚問よね」
沈黙が続いた。
エレベーターが一階まで下りて停まり、扉が開く。
「……じゃあ」
かれんは俯いたまま健斗の脇をすり抜け、振り向かずにエレベーターを降りようと一歩踏み出す。
その瞬間、腕を掴まれてエレベーターの中に引き戻された。
健斗はすぐさまドアを閉めて上階のボタンを押した。
「な、なにするの!」
非難するような面持ちで、バッと顔を上げると、すぐそばに健斗の瞳があった。
「あ、あなたね……」
健斗はかれんの腕を掴むとグッとその胸に引き寄せた。
「えっ……」
抵抗しようも、身動き出来ないほど強く抱き締められたかれんは、背中に回された彼の手が震えていることに気付く。
沈黙の中、彼の身体越しに階数が上がっていくのを見つめながら静かに問いかけた。
「何か……あったの?」
「ああ、あったよ」
ようやく口を開いた健斗の声は、苦みを含んでいた。
「お前にいろんなことがバレた」
「バレたって?! そもそも嘘ばっかり!」
そう言ってかれんが身体を離そうとする。
「違う! 嘘じゃなくて、全部本当の俺だ。でも……言えなかった」
「言えない?! なぜ?」
「お前が離れていくような気がしたから……」
「え……」
かれんは驚いて、健斗を見上げる。
その表情は、予想もしなかった憂いを帯びていた。
「俺とお前の関係が、壊れるような気がしたから」
「関係って……」
「気付いてるんだろう? 俺の気持ちに。お前はどうかわからないけど、少なくとも俺の中では、お前の存在が大きくなってきてる」
健斗はまた、かれんを強く胸に抱いた。
「どうも俺は……お前のことが、必要みたいだ」
健斗はかれんの髪を撫で、そっと身体を引いて、その顔を見つめた。
しなやかな手がかれんの頬を包み、ゆっくり顔を近づけた健斗は慈しむように口づける。
唇がそっと離れ、静かに見上げた健斗の顔は透き通るほどに美しく、真剣な眼差しはまっすぐかれんを撃ち抜いていた。
もはや言葉も、視線を外すことすらも出来なかった。
そして、また強く抱き締められる。
エレベーターの到着のベルが、無情にも感じられた。
二人は体を離す。
エレベーターが開くと、健斗は一階のボタンを押してから一人降りた。
そして扉に手首をかけて、かれんに優しい眼差しを向ける。
「このまま一緒に帰りたいけど、そうもいかないみたいでさ。悪りぃ。連絡するから、待ってて」
立ち尽くすかれんを見据え、健斗は微笑みながら手を離す。
ゆっくりと扉が閉まって、健斗が視界から消えた。
かれんは目を見開いたまま、言葉も発せられず、ドンと壁に寄りかかる。
ブーンというエレベーターの音だけが響いていた。
今起きたばかりの出来事なのに、まるでものすごく時間が経過したようにも思える。
動揺して、心臓が壊れそうだった。
でも彼の腕に抱かれ、その胸から響いてくる低音の声を思い出すと、熱い気持ちが込み上げてくる。
言葉にできない気持ちの中にただ身を置きながら、エレベーターが再び開くのを待った。
一階に降り立つと、かれんは出口には向かわず、ホテルのロビーを横切って、緑が溢れる中庭へと足を向けた。
燦々と降り注ぐ陽の光を全身に浴びながら見上げた空は鮮やかで、果てしなくどこまでも広がっているように思える。
川のせせらぎが美しい音を奏で、まるで草木の息吹が聴こえてくるかのようだった。
見るものすべてが違って見え、心の中には音楽が流れ、目に映るものすべてが違って見える。
心が満たされていた。
自然に頬がほころんで、優しい気持ちになってくる。
恋に、落ちたんだ……
そう気付いて、足を止めた。
来た道を振り返ると、彼の顔がふわりと浮かび、やわらかな眼差しを投げ掛けてくる。
胸はきゅっと切なくなるのに、込み上げてくる幸福感は大きな波のように体を巡り、どんどん高鳴ってゆく。
私は……
彼を……
声にならない呟きに目を閉じて、かれんはしばらくその場に立ちすくんだ。
第49話『Chemistry between two』 - 終 -