第44話『明けの朝凪』
第44話『明けの朝凪』
心地よい低音の「おやすみ」の声と同時にドアが閉まり、健斗の姿が消えると、なんだか急に現実に引き戻されたような、妙な気持ちになった。
ふうっと一息ついたかれんは、早々にバスルームに入り、バスタブにバスバブルを滴す。
ひねった蛇口から勢いよく水が流れ、もくもくと泡がたっていくのをぼんやり見つめていた。
足の先に砂の感触が残っている。
そしてぎゅっと抱き締められた感覚と、背中に感じた温もりや鼓動も……
胸の高鳴りに戸惑いながら、泡だらけのバスタブに飛び込む。
ピーチフレッシュの甘い香りに包まれ、気持ちが落ち着いていくのを感じた。
まだ酔いから完全に生還はしていない。
泡を集めながら、ここでの二日間に頭を巡らせる。
奇しくも、このホテルで生まれた過去の憤り。
覚悟して訪れたつもりが、思いの外感情を支配され、闇の中に沈みそうになっていた心を、ひょいと救って現実に引き戻してくれたのは、やっぱり藤田健斗だった。
ついこの間『Blue Stone』で三年ぶりにハル会った、あの夜も……
ヤダ! よく考えたら、あのとき
藤田健斗はハルと直接会ってるじゃない!
さっき私がした話しも
相手の顔が判ってて聞いてたってことね……
恥ずかし過ぎる……
しばらくうなだれて、ザブンとお湯に顔を浸けた。
恥ずかしさも自己嫌悪も最高潮。
でも、説明のつかない気持ちでバラバラになりそうな自分に、寄り添ってくれた。
彼は一体、どういうつもりでやっているんだろう。
そういえば……
余計なことを思い出した。
マンションの前で、彼にカードケースを返したときは、息が止まるほど抱き締められた。
とはいえ、あの夜はすごく酔っていた様子で、覚えていないのかもしれない。
彼って、どんな人……?
初めて会ったあの雨の日、彼は見ず知らずの自分を助けるために、危険を省みず車の前に飛び出した。
皮肉な言い方をしていても、帰りもちゃんと送ってくれた。
どれもとても親切な行為と言える。
山上ホテルの社長の陰湿なセクハラからも救ってくれた。
身体だけではなく、そのあとの心のケアまで完璧で、『RUDE Bar』に連れていってくれたり、深夜に電話もくれた。
そして今回も、よろめく身体を力強く支えてくれた彼は、その胸の上で満点の星を見せてくれた。
その大きな手を頭に置いて覗き込むように姿勢を下げ、温かい眼差しを向けてきて……
かれんはハッと目を見開く。
大きく息をついて、首を振った。
な、なに?!
もしかして、身も心も救う救世主?
教職に就くものとして? とか……
それとも……ただの善人?
言い換えれば、誰にでも優しいのかもしれない……
モデルとしてイベントに参加した際も、現場スタッフに手を貸す姿を何度も見ている。
優しい表情の彼を……
表情……ね
かれんはステージ上での彼を思い浮かべる。
レイラとまるで本当の新郎新婦のように振舞い、優しい眼差しを向けていた。
とても自然な笑みだった。
兄のような……
いや……
ふと昨夜のことが急に思い出された。
彼の部屋に入っていった時のレイラの高揚した頬の赤みを思い出す。
健気で美しいレイラ、二人はお似合いだと思った。
そんな彼女は彼のことが好きなんだと……思う。
兄や親戚としてではなく……
胸の奥に、なにかが刺さるような感覚を覚えた。
なに……気にしてるんだろ?
ザバッと立ち上がりローブを纏う。
バスルームを出てもなかなか火照りが治まらなかった。
ダメだ、酔いがぬけない。
仕事のメールに目を通さないといけないと思いつつ、今日はやたら脳裏に彼がちらつく。
こういうときは、何を考えたところでろくなことにならない。
かれんは頭を振って、布団に潜り込んだ。
森の中……
雨が降っていて心細い。
辺りには誰もいない。
誰かの名前を叫んで泣いているのは
小さな女の子……
恐る恐る立ち上がって、辺りを見回しながら歩き始める。
足からは血が出ている。
うわぁ!
急に足元が不安定になったと同時に崖に滑り落ちる。
助けて。
葉っぱや小石が頭に降ってくる。
助けて。
何度もそう叫ぶ。
誰かの腕がスッとのびて、ぎゅっと手首をつかむ。
「もう大丈夫だよ」
ホッとする声……
その声の持ち主は柔らかい眼差しを向けた。
その瞬間、また大きくバランスを崩す。
「はっ!」
布団を跳ね退け、大きく息をつきながら起きあがり、それがベッドの中であることに気付く。
額にびっしり汗をかいて、激しい動悸と息苦しさに胸を押さえた。
夢……
大きく息を吐く。
心底、夢で良かったと思えるような、怖くてリアルな情景だった。
まだ背骨辺りの震えが止まらない。
時計を見ると午前五時だった。
このまま眠りに落ちたら、またあの世界に迷い混んでしまいそうで、とうてい眠る気になれない。
かれんはブランケットを羽織ってベランダに出る。
朝の冷たい空気が脳幹に染みるようで、ゆっくりと心が緩和されていく。
ブランケットを開いて両手を広げ、大きく深呼吸した。
「色気のない格好だな」
驚いて声の方に振り向く。
「えっ?! ええーっ!」
L字になったバルコニーの柵の向こうに、ラフなTシャツ姿で気だるそうに立っている人影を確認する。
「ふ、藤田健斗……なんで?」
「なんでって、隣なんだからこういう事もあるだろうよ。しっかし、ホント無防備だよな」
そういえば、玄関ドアの位置は離れていても部屋は隣、バルコニーは繋がっていたらしい。
ブランケットをぎゅっと羽織り直す。
テンパっているかれんとは対照的に、柵に肘をつきながら、健斗は静かに海を眺めている。
かれんを一瞥した健斗は、白々しほど大きなため息をついた。
「女子ってさ、もっとこう……女らしいっつーか……かわいらしい格好で寝たりしないのか?」
耳が熱くなるのを感じて、ブランケットをぐっと上げる。
「つ、つまんない妄想ね! いやらしい!」
「あーあ、夢が壊れるな」
「はぁ! どんな妄想よ?! 付き合ってた女子がそういうタイプだったたけでしょ!」
「まあ、お前よりはみんな女子力高かったよ」
「あっそ! 私はスタンダードだと思ってるけどね!」
プイと横を向くかれんを見て、健斗は笑いだす。
「こっち見ないでよ! っていうか、どうしてこんな朝早く?」
彼のシャツを見ても、今の今まで寝ていたようには見受けられなかった。
「論文、やっと終わってさ。今の今までかかったんだ」
健斗は両手をあげてグーンと伸びをする。
「俺はモデルで食ったりしてる訳じゃないからな。お堅い仕事なんだぞ」
「なんの自慢よ!」
「このショーに出るために無理して来てんだからさ、労ってもらいたいもんだ。こちとら、徹夜なんだぞ!」
健斗はまっすぐ海に目をやる。
「きれいだな。久しぶりに水平線を見た。子供の頃は山ばっかりで、夏に海にいくのが楽しみだった。でも……あれから、海も山もわざわざ行くことも……なくなったな」
かれんが健斗の方を見つめる。
「お! 風が止まった! これって朝凪っていうんだろう? 昔……聞いたことがある」
「朝凪……私も聞いたことある……これが?」
二人で海を見つめる。
雄大な景色に、かれんもここから何を切り出したらいいのかもわからなくなっていた。
話たいことは……色々あるようにも思えるのに。
不意に健斗が長い体を折り曲げるようにして、こちらのベランダを覗き込んで来て、白々しく笑った。
かれんは首をかしげながら口を開こうとする。
「あの……」
「にしてもさぁ……メイクとったら子供みたいな顔だよな?」
「え?」
健斗はまじまじとかれんの顔を凝視する。
あ、素っぴんだった!
「や、やめてよ! 見ないで!」
急に恥ずかしくなって、ブランケットを頭からかぶる。
「今頃隠しても遅いだろ。なぁ、コーヒーでも淹れてやろうか?」
「け、結構よ!」
「あっそ。じゃあまた朝食の時にな」
健斗はひょいと柵から降りる。
かれんはプイと背中を向けて、部屋に入ってドアをピシャリと閉めた。
もう……
恐る恐る鏡を見る。
素っぴんにTシャツ姿の自分を見たかれんは、げんなりとその場に座り込んだ。
最悪……
やってしまった……
もう眠る気にもなれない。
ひとまずメイクをしようにも、正直、素っぴんを見られたあとにバッチリメイクで決めるのは、あまりにも気恥ずかしい。
ああ、女ってたいへん。
面倒な感情だわ。
カバンに荷物を詰めながらベッドに目をやると、さっき悪夢で起きたことを思い出した。
かなり怖い夢だった。
恐怖というよりは絶望感に近い負の感情……
でもまた、藤田健斗によって緩和された。
今の今まで、夢の事を忘れていられたことに驚きすら感じる。
でも〝神〟みたいな存在とは程遠い。
口を開けば皮肉ばかり。
そう! 意地悪王子だわ。
朝食に向かうため、かれんはそっと部屋を出て、健斗に遭遇しまいと足早にエレベーターホールまでたどり着いた。
到着したエレベーターに乗り込んで、ゆったりとドアが閉じるのを待っていると、閉まる寸前に大きな手が現れて驚く。
サーッと開いた扉の向こうに長身の男のシルエットが見えた。
もう……また……
かれんはガックリと肩を落とす。
それに相反するように、そのシルエットはにこやかな表情でずかずかと入ってきた。
「おはよう。あ、さっきも言ったか?」
ニヤリと笑う健斗からフンと顔を背ける。
「へぇ、今度はちゃんと〝三崎かれん〟だな。なら、さっきベランダにいたのは誰だ? お前の娘か?」
「またイヤミを……」
エレベーターから降りて、同じ方向に進む。
「そう怒るなって!」
足を早めて先に席についたかれんは、一人で手短に食事を済ませる。
さっきまでチラチラしていた健斗の姿が見えないと思っていたら、すぐあとから来た由夏と同席しながら食事をとっているのが遠目に見えた。
和気あいあいと話を弾ませている姿をみて不思議に思う。
ホテルオーナーに再度挨拶をして、最後に乗り込んだバスの座席近くには、また藤田健斗のシルエットがあった。
いつものように話しかけてこないのでそっと覗いてみると、彼はもう眠りに落ちていて、かれんは驚く。
その横顔にはほんの少し疲れが浮かび、端正で血の気のないその顔はまるで彫刻のようだった。
徹夜で論文仕上げてたんだもんね
けっこう……邪魔しちゃったのかも……
悪かったかな?
由夏がそっと寄ってきてその寝顔を微笑ましく見ると、かれんに目配せをする。
そのまま由夏はかれんの隣の席に腰を下ろした。
「寝顔もイケてるなんて、反則よね」
由夏がウィンクをする。
かれんはそんな由夏の横顔をまじまじと見つめた。
どうしてだろ?
由夏はおしゃべりだけど、口の軽い人間じゃない。
何故、ここが因縁の地だって、彼にバラしたりしたんだろ?
それを言ったら、山上ホテルに残らせたりも……
そうだ! 私の電話番号も教えたわよね?
由夏は藤田健斗を信頼してるってこと?
そんなに??
わからない……
「どうしたの、かれん?」
「え? べ、別に」
「疲れた顔してるわね。あんまり寝てないんじゃないの?」
「あ、ああ、まぁ……」
「まぁ仕方がないか。でももう、因縁の地ともおさらばよ。次回の『Boarding ROX』のイベントは別の会場になるって話だったでしょ?」
「うん……」
そう相槌を打ちながらも、もうすっかり自分の中から因縁の地という概念がすっかり消えていることに驚いた。
後ろを振り返り、美しい寝顔を眺める。
やっぱり……これも藤田健斗のお陰なのかしら?
第44話『明けの朝凪』- 終 -




