第4話『彼の家、彼女の会社』
翌朝、かれんは平日よりもほんの少し、ゆったりと目覚めた。
昨夜捻挫した左足の腫れは、ほとんど引いている。
それても少し足を庇いながらベッドから足を下ろし、だだっ広いリビングに向かった。
トースターにベーグルをセットしてから温かいコーヒーを淹れる。
脇にあるパソコンを開き、昨日のクライアント宛に謝罪と今後の提案を記載したメールを送ってから、ちょうど焼き上がったベーグルに、冷蔵庫から持ってきたスライスチーズとポテトサラダを手早くサンドして頬張った。
朝食を終え、コーヒーを片手にガラス越しのサンルームに目をやると、昨夜干しておいた赤い折り畳み傘が見える。
陽の光を浴びたそれは、まるで華やかな差し色のオブジェのようだった。
昨夜の出来事に思いを巡らせる。
いつもは通らないあの道で、赤い傘を閉じた瞬間にキーチェーンが外れて地面に落ちていく光景が、まるでスローモーションのように頭の中に甦った。
「ホントに何だったんだろ?」
そこからは吹っ飛ばされて、あまり記憶がない。
優しい笑顔の天海先生と、皮肉っぽく笑う藤田健斗の表情が交錯する。
「藤田健斗ね……」
ひょんなきっかけで知り合った、知らない人。
バッグの中にあった、黒いカードケースを思い出した。
「まさか、落とし物を届けるハメになるとはね……」
かれんはさっさと身支度をして、玄関に足を向けた。
思ったよりも軽傷だったようで、痛みはほとんど感じない。
とはいえ、さすがにヒールの高い靴を履くわけにはいかないので、フラットシューズをチョイスした。
脇に目をやると、テーピングでぐるぐる巻きにされたパンプスが玄関に転がっている。
楽しそうにマジックを塗っている天海先生の顔が浮かんで、かれんは思わず微笑んだ。
マンションを出ると、昨日の雨が嘘のような爽やかな晴天だった。
三月の空は、まだ少し肌寒い。
「確か……この桜川沿いって言ってたわよね。で? オンボロアパート? そんなのホントにあったっけ?」
大通りに出る。
この時間は当然ながら『RUDE Bar』には『close』のプレートがかかっていた。
「ふーん、天海先生も来てたとはね」
橋に目を移し、横断歩道を渡って、いつも夜食の調達にお世話になっているコンビニを横目に、川沿いの道をゆっくりと北上していく。
キョロキョロ見回しながら小さな公園を通り過ぎ、連なる豪邸の狭間に少し奥まった箇所を発見した。
半信半疑で覗き込んでみる。
「わ、何これ?! こんな所にこんな建物が?!」
辺りとは全く異なった風貌の、古めかしいアパートがそこにあった。
どれほど築年数が経っているのだろう。
周りには数々の豪華な邸宅が立ち並んでいるなかで、そこだけがまるでタイムスリップでもしたかのような、ノスタルジックな佇まいだった。
建物の手前の壁面に並んだ、いかにも安アパートらしいポストも簡易的で、それぞれに住人らしき名字が書いてあり、1階と2階の8戸には、いずれも違う名前が書かれていたが、その中に『藤田』という名字はなかった。
なぜか3階だけはポストがひとつしかなく、その301号室には『 F 』とだけ書かれていて超絶あやしい。
「ん……でもこれじゃ断定は出来ないわね。もう! 仕方がないなぁ!」
錆の臭いがするような鉄の階段を、カンカンと音を鳴らしながら手すりを持って危なげに上がっていく。
「私、一応怪我してるんだけど!」
一人で愚痴を呟きながら、かれんは3階まで上がりきった。
301号室の玄関を探すも、いくら進んでも壁ばかりでドアが出てこない。
「なに?! この作りは……」
廊下の突き当たりに、おおよそこの建物には不釣り合いな、豪華な玄関ドアが見えてくる。
「え? もしかして……ここまで全部?!」
かれんは後ろを振り返ってドアがなかったことを再度確かめる。
どうもこの階だけはワンフロアすべてが一室になっているようだ。
『藤田』と書かれた立派な石造りの表札がかかっていた。
「ここなのね……」
インターホンを押してみるが反応はない。
「もう! せっかく上ってきたのに。どうして留守なのよ!」
やむを得ず廊下を戻り、また鉄の階段をゆっくりと下りていく。
さすがに左足が少し、ズキズキし始めていた。
「私の足が悪化したらアイツのせいなんだから!」
そうまた愚痴りながら、集合ポストの前に戻った。
「しかし……ホントにノスタルジックな建物よね。こんな地価の高い一等地にこれだけの敷地を使ってオンボロアパートだなんて、滑稽すぎるわ」
かれんはカバンから黒いカードケースを取り出して眺めた。
『 F 』のポストに入れていいものかどうか迷う。
「大切なものかもしれないのに、鍵のついていないポストに入れるのもね……」
『 F 』のポストからは、郵便物が少しはみ出していた。
その形状が、見覚えのある封筒に酷似していて、かれんは首を傾げる。
気が引けたものの、こっそり引っ張り出してみた。
「ええっ! どうしてコレがここに?!」
光沢のある、真っ赤な大きな封筒。
それは、かれんのイベント事務所がプロデュースし、春に開催される大規模なファッションショーの招待状だった。
間違うはずもない。
自分がこのイベントの総合プロデューサーをつとめる本人なのだから。
「まって! なんでよ!? どうして彼にこのカードが? 関係者……いや、名前に覚えがないし……家族に知り合いがいるとか?」
疑問を頭に巡らせながらカードを裏返す。
そこには宛先も切手もなく、藤田健斗様とペン書きされている文字があるだけだった。
それは誰かが直接、このポストに投函しに来たことを示している。
「藤田健斗……一体、何者なの? ますますわからなくなってきたわ」
かれんは、あれこれ考えあぐねながらも、そのインビテーションカードをもう一度ポストに戻した。
しばらく腕組みをしながら頭を整理する。
「とりあえず……こんなに簡単に郵便物を見られちゃうポストに、このカードケースは入れられないか……」
そう言って空を見上げ、また溜め息をついた。
「ああ……また出直さなきゃならないなんて。もう! 本当に面倒な人ね!」
ふと、カードケースの最後の二枚の写真が頭によぎる。
初めて見た時の、あの懐かしい感じはなんだったんだろうと思った。
「しょうがない。もう少し預かっておくしかないか」
かれんはそれをまたバッグにしまって、自宅の方向へ引き返す。
さっきより、少し陽が高くなっていた。
見上げれば、川沿いの桜のつぼみが膨らんできている。
さあっと吹き上げてくる風に、ほんの少し春の兆しを感じた。
すぐそばまで新しい季節が来ている実感に、説明のつかない不思議な予感がして、胸を高鳴らせた。
不意にポケットの中でスマートフォンが振動する。
「え? 会社から?」
半信半疑で耳に当てる。
「もしもし。あ、由夏? どうしたの?」
相手は同僚の相澤由夏だった。
「かれん! 休みの日にごめんね。あのさぁ……今から出てこられない?!」
「ん? 別に構わないけど、どうしたの?」
「実は、クライアントに渡すデータの一部が飛んじゃって……フォームから修正するより、原案から起こした方が早いと思うんだけど……あの企画は、かれんと一緒に作成してたでしょ。頭、借りたくてさ」
「ふーん。それで1人で休日出勤したわけね? ご苦労様。いいわ、一旦着替えに帰って、すぐ向かうから」
「え、外出先?」
「ああ、大したことないの、近所を散歩してただけだから。そうね……1時間で行く」
「ごめん! 助かる!」
「うん。待ってて!」
かれんは家に戻り、オフィス用に身なりを整えると、ローパンプスを履いてすぐさま駅に向かった。
休日の電車の中は空いていて、春を思わせるような温かい日差しが差し込んでくる。
きらきら光る海を臨む南側の窓が眩しくて、山々で目を癒す北側の窓が見える席に移った。
そのパノラマを贅沢に満喫しながら、心地よく揺られる。
休みの日の電車って、いいな。
思えばこの冬も忙しく、休みの日は専ら家にこもってパソコンに向かって作業をしていた。
しばらくまともに休んでないなぁ。
ママはいいわよね。
今頃イギリスで存分に楽しんでるはず。
バッグでもおねだりしちゃおうかな。
そんなことを思いながらも、自分がいかに仕事好きなのかを実感する。
最近では、それをようやく素直に認められるようにもなった。
今日もこうして休み返上でオフィスに向かうことになっても、ちっとも嫌じゃない。
駅に着いたとたん、どっと人混みが押し寄せる。
そっか、休みの日だから……
小さい子を連れたファミリーや外国人観光客の姿も多い。
仕事でこもってると、世間の動向に疎くなるよね。
ダメダメ!
イベントコンサルタントなのに
感覚が錆び付いてしまったら
ウチの会社はおしまいよ!
真っ直ぐにオフィスビルへ足を向ける。
駅から直通通路を通り、東雲コーポレーションの自社ビルに入る。
パスでゲートをくぐり、エレベーターホールへ急いだ。
いつもならここまでの間に、何人もの人と挨拶をかわす。
休日の今日は警備員以外、誰とも会釈をしない。
閑散としているせいか、エントランスもエレベーターも、より広く感じる。
7階で下りてすぐ左手にある、彼女の会社『ファビュラスJAPAN』
そう書かれたペールブルーのオフィスドアを押し開ける。
「かれん! 早い!」
「でしょ?」
「さすがは我が社のWorkaholic!」
「ちょっと! せめてHard Workerにしてくれない? 病んでるみたいじゃない!」
そう言いながらコートをかけて、『エグゼクティブプロデューサー 三崎かれん』と書かれた重厚なプレートが置いてあるデスクに、資料のつまったカバンをドンと置いた。
「じゃあ早速、始めますか!」
第4話『彼の家、彼女の会社』 - 終 -