第30話『忘れ得ぬ記憶』
第30話『忘れ得ぬ記憶』
大きな木の傍にへたり込んだかれんを抱き起こした健斗は、苦しそうに不規則な呼吸を繰り返すかれんの背中をさする。
恐怖からか足がガクガク震えていて、身体に力が入らないようすだった。
「立てそうにないな……じゃあ、おぶってやる」
健斗はかれんの腕を支えて、持ち上げるように背中に担ぎ上げた。
「行くぞ。 落ちるなよ」
森を歩きながら、健斗は複雑な思いを抱えていた。
本当はズタズタにしてやりたかった。殴って殴って、
口も聞けないようにしてやりたかった。
でも彼女の涙を見たら、
そんなことよりも早くここから連れ出してやりたいと思った。
今も背中越しに、彼女の異常なまでの動悸が感じられる。
それが更に健斗の感情を揺さぶった。
こんなに心が震わされたことは、しばらくなかった。
そう、〝あの時〟以来……
そして今、奇しくもあの時のように、人を背負って森を歩いている。
彼女の頭の重さが、その存在を知らせた。
あの時のように……
とにかく、無事で良かった。
不意に、背中から彼女の頭が持ち上がった感覚がした。
「どうした?」
「なんかね、頭が……」
「頭が痛むのか? ちょっと待ってろ、降ろすから」
傍にあった切り株に、そっと降ろして座らせた。
健斗はかれんの前にしゃがみこんで、同じ目の高さで覗き込む。
「どうした?」
目の奥が怯えていた。
何かを訴えているように見えた。
「頭が痛むのか?」
「違う……なんか頭が真っ白になって……閃光みたいなものが浮かんできて……そしたら苦しくなって……」
「閃光? 何だそれは?」
「何か、思い出したのかも……」
「思い出す? なんのことだ?」
「待って! また頭が……」
そう言ったまま眉をしかめたかれんは、意識を失ったかのように力なく健斗に寄りかかった。
「おい! しっかりしろ!」
今度はかれんを抱き上げて、早足で森を進む。
またこんな思いをするとは……
健斗の頭に十五年前の出来事がよぎった。
次第に頭を占領するその辛い記憶を振り払いながら、ひたすら歩く。
やっとの思いで駐車場に到着すると、健斗はそっと彼女を後部座席に寝かせた。
うっすら意識はあるようで、何かブツブツ言っている。
「ちょっと待ってろ。水をもってくるから」
そう言ってホテルのロビーに走った。
依然、十五年前のことは頭から離れない。
もうあんな思いはしたくない。
水のボトルを持って車まで走って戻ると、意識が戻ったかれんが後部座席に座っていた。
「おい、起きて大丈夫なのか?!」
勢いよくドアを開ける健斗に、かれんは蒼白い顔を向けた。
「ええ」
「頭の痛みは?」
「もう治まったみたい」
「そうか。ほら水、飲んで」
健斗はキャップを外したペットボトルを手渡す。
「ありがとう」
しっかり受け取って、少しずつ水を飲むかれんを見て安堵する。
「びっくりさせるなよ、一体どうしたんだ?」
「それが……私にもわからないの。森にいる時に、なんか頭の中に光が走って……真っ白の……そしたら何かが、パッパッって、早回しのフィルムみたいに見えたの」
「それが何か、わかるのか?」
「何も分からない……考えようとしたら頭が殴られたみたいに痛くなったの」
かれんは説明しながら顔をしかめた。
「わかった。ちょっと落ち着こう」
「うん、もう平気だから。今は何ともないし」
「そうか、車動かして大丈夫そうか?」
「ええ」
「じゃあ、気分が悪くなったら言えよ。横になってもいいから」
「うん」
窓を全開にして、曲がりくねった山道を風に吹かれながら下って行く。
時折、バックミラーで後部座席を確認するも、さっきよりは顔色も表情も、ずいぶん落ち着いているように見えた。
健斗はホッと息をつき、ハンドルに力を込めた。
かれんは開け放った窓に腕をかけ、外の景色を見ていた。
夕暮れの風は心地よく、その新鮮な空気に髪を撫でられているようでホッとする。
夕闇の迫る空の色は刻々と変化し、眼下には少しずつ光を帯びるパノラマの夜景が現れて見えて美しいと感じた。
でも心には、悲しみと恐怖の気持ちがこびりついている。
それとともに、心の底から悔しさが溢れてきた。
女が仕事をすると、多かれ少なかれ嫌な思いをする局面がある。
でも今日の出来事は、かれんに今までないほどの恐怖心を植え付けた。
本当に怖かった……
もしあのまま……
そう思うと また足がすくむ思いがした。
健斗は救いの神だった。
「ねえ」
「なんだ? また具合でも……」
「いいえ、大丈夫。あの……どうして森の中に……来てくれたの? モデルは全員帰ったって聞いてたから」
「あ……」
健斗は、ばつの悪そうな顔をした。
「実はさ、由夏さんに頼まれてたんだ」
「えっ、由夏に?」
「ああ、お前を送ってやってってさ。だからお前があのバカ息子と喋ってんのを、二階のテラスで眺めながら待ってたんだよ。そしたら森の方に行くじゃねえか、おかしいなと思ってしばらく待ってたんだけど、片付けしてるホテルの従業員の噂話を聞いちまってな。〝あいつは酷いセクハラ男だ〟って。お前がいつまでたっても森から出てこないし、ひょっとしてヤバいんじゃないかと思って……それでな」
「そう……」
「行ってよかった。とんでもねぇ奴だな」
かれんはまた黙り込んだ。
グッと目をつぶって下を向く。
強く押し当てられた手首に走る痛みと、あの光景がなんども頭に浮かんだ。
山道がだんだんなだらかになってきた。
バックミラー越しにかれんを見ると、彼女は両手首を見つめ、しきりにさすっていた。
PTSDかもしれない。
でもどうするか……
病院に連れていくわけにもいかないしな……
とりあえず、飯でも食わせようか。
「さあ下界だぞ、もうすぐ着く」
「そう。あの……夜景……綺麗だったよね」
その声はようやく絞り出したようにかすれていた。
「バカ、無理すんな」
「別に……無理してなんかないわ」
「バカ、顔見りゃわかるぞ」
「ホントあなたは……私にバカバカばっかり言う」
「そうだな。最初からそうだった」
「意地悪なんだか、優しいんだか……」
かれんの言葉が詰まった。
「……でも、本当に、ありがとう……助けて、くれて……」
その、か弱くたどたどしい言葉を聞いて、健斗は胸がつまった。
本当に怖かったんだな……
なんてことをしやがる!
あの野郎……
ハンドルを殴りそうになる気持ちを、グッと抑えた。
「さあ、着いたぞ」
車を健斗のアパートの前に止める。
「降りられるか? 待ってろ」
健斗は車を降りて、後部座席のドアに回った。
「ほら。メシでも食いにいこう」
かれんは差し出された手を取った。
大きくてしなやかな手だった。
シートから体を起こすとまだ少しふらっとしたが、健斗に支えられて立ち上がると、なんとか歩けそうだった。
「あの……」
健斗は彼女の頭に、その大きな手のひらを置いた。
「さあ行くぞ」
「どこに? またコンビニじゃ……」
健斗はカラカラと笑いだす。
「お! 調子出てきたな」
かれんのすぐ側で携帯電話を取り出して耳に当てた。
「あ、もしもし俺、 飯食いそびれちゃってさ。何か作ってくれ。そうだな……消化が良くて腹持ちするやつ。え? いや二人前。女子だからよろしくな。じき行くわ、じゃあな」
「今のって?」
「波瑠だよ」
かれんの顔がふわっと明るくなった。
第30話『忘れ得ぬ記憶』- 終 -




