第3話『落とし物』
彼に支えてもらいながら乗り込んだタクシーが走り出した。
「足、痛むのか?」
「あ……いえ、そんなには」
並んで座った二人に、ぎこちない会話が続く。
「あのドクターさ」
「え?」
「車運転しながら、俺たちに他の異変がないか観察しているみたいだったよな? なかなか出来るヤツかもな」
「ホント、優しくて」
「ああ」
「笑顔も素敵だったわ……なんか俳優さんみたいじゃなかった?! 背も高くて……」
彼はフッと溜め息をつく。
「ったく、オンナってヤツは……」
「なによ!」
彼は挑発的な表情で彼女の方に体を向けた。
「背は俺の方が高かったけどな。あ、それに……俺の方がイケメンじゃね? ほら? よく見てみろよ、どうだ?」
顔を近付けてくる彼に、彼女は辟易とした表情を返す。
「なに言ってんの! ホント、変な人ね」
「変な人はないだろ!」
お互いそっぽを向いて、しばらく会話が途切れた。
「あの……あなた〝藤田 健斗〟っていうのね」
彼がバッとのけ反る。
「ええっ! なんで俺の名前知ってんの?!」
その言葉に呆れて、溜め息をついた。
「白々しい! さっき受付で2人並んで書いたじゃない! どうせあなただって私の名前、見たんでしょ?」
「三崎 かれん」
「ほら! やっぱり見てたんじゃない!」
健斗はへへっと笑った。
かれんはため息をつきながら横目で健斗を見る。
「なんか、いい加減っぽい。何やってる人なの?」
健斗がまたくるりと顔を向けた。
「は? なんだ、自己紹介でもするか? それとも身元調査?」
「別にそんなつもりじゃ……」
「見た感じでわかんないかな? このスタイルだぜ? モデルとか、せめてショップ店員とかに見えない?」
かれんはまた溜め息をついて、首を横に振る。
「見えないわね。それに、なに? その軽い感じは?! まあいいわ、興味ないし」
「はぁ! そんな言い方あるかよ!」
オーバーアクションで突っ込んでくるのを見て、思わず笑ってしまう。
「で、本当は何をやってる……」
そこまで言いかけたところで、急に健斗が前に身を乗り出した。
「あ……運転手さん、ここで止めてください」
窓の外に目をやると、かれんのマンションの前だった。
料金を払って彼も一緒にタクシーを降りる。
「本当にこのマンションがわかったのね? なんか……怖いな。ストーカーでもされたら……」
健斗が呆れたように空を仰ぐ。
「はぁ?! なに言ってんだ!? こんな気の強いオンナ、こっちからお断りだ!」
「ホント失礼ね!」
そう言いながら睨むと、健斗の視線はかれんの足元を見ていた。
「おい! 暴れるなよ。坂なんだから、転ぶぞ」
「暴れるわけないでしょ! 大人なのに」
「大人なら、ちったぁ静かにしろ! ほら!」
健斗は身を低くして肩を差し出すと、視線でかれんをエントランスに促した。
「あ……ありがとう」
たった数歩の距離でも固定された足は前に出しにくく、たどり着く時間が長く感じられた。
「ふーん、〝カサブランカ・レジデンス〟ねぇ。なんかすっげぇマンションだな。最初見た時はラブホかと思ったぜ」
かれんは憤然として、健斗を睨む。
「ねぇ! っていうか、どうしてあなたまでここで降りたの? 自分の家の前まで乗っていけばいいじゃない」
健斗は豪華なエントランスを見回しながら言った。
「聞いてなかったのか? ご近所さんだって言ったろ! ホントにすぐそこだ。スープもギリギリ冷めない距離」
「なんか、やだな……」
「はぁ?!」
威圧的に姿勢を正した健斗の顔は随分と高い位置にあり、かれんが思っていたよりもずっと長身だったと気付く。
健斗は見下げるように視線を下ろし、腕組みをしてかれんの前に立ちはだかった。
「あのな! 命の恩人に対してそんな言い方があるかよ!」
かれんは空を仰ぐように、その顔を見上げた。
「はいはいわかりました。今日はありがとうございました」
「わかればよろしい!」
健斗がグイッと一歩近付いて、かれんの右肩に手を伸ばした。
「な……なに?!」
「コート、汚れちまったな」
「あ……ああ、大丈夫……」
健斗は肩をすくめて言った。
「そんなに身構えんなって! これからは気を付けろよ。じゃあな」
そう言ってくるりと背中を向けると、包帯を巻いた右手をゆらゆらと振ってエントランスから出ていった。
「あ! ありがとう」
かれんが最後にそう投げた言葉が、彼に届いたかどうかはわからない。
ガラス越しに、川沿いの道を北上していくのが見えたが、すぐに視界から消えた。
「結局、なにやってる人だか聞きそびれちゃったな」
かれんはそう呟いて、エレベーターの階数表示を見上げる。
乗り込んで『7』のボタンを押してから、バッグのキーチェーンに目を移した。
「変な一日だったなぁ……」
今日、かれんの会社が開催したイベントは、もともと屋外の予定だった。
なのに予報が外れたこの雨で、急遽屋内イベントに切り替えざるを得なくなったため、会場設営にも時間がかかった。
加えて生演奏の出番寸前にベースの弦が切れたと大慌てで、なんとかタイムテーブルを変更して事なきを得たものの、現場はバタバタだった。
おまけにファッションショーのモデルが1人欠席したために衣装チェンジがうまく行かず、やむなく順番が入れ替わってしまい、クライアントに謝罪する羽目になった。
今日一日、仕事もスムーズにいかない上に、挙げ句、怪我までしてお気に入りのヒールも壊れてしまうとは、もはや不運としか言いようがなかった。
「ああもう! 散々な一日だったわ!」
エレベータ―が開く。
最上階のペントハウス。
このフロアには1つしかない真正面の扉に進み、鍵を開けた。
明るい廊下を進み、リビングの大きなソファーに腰を下ろすと、かれんはようやくホッと一息つく。
母との二人暮らしにしては、贅沢で広すぎる空間。
その母も今は海外に住む親戚の家に行っていて、来週まで不在の予定だった。
そうでなくとも画廊を経営している母は、買い付けと称して海外渡航が多い。
父と母が離婚したのは、かれんが10歳の時だった。
理由はわからない。
子供の頃に聞きそびれたまま、今に至る。
母とは同じ家に住んでいてもお互い仕事が忙しく、時間がすれ違って何日も顔を合わせないことの方が多い。
自分ももう大人だし、何でも報告する義務もない。
放任主義でドライな性格の母は、何かあってもさほど気にならないとは思う。
でも……
今日のことは話さないでおこうと思った。
キーチェーンを落とした瞬間に頭に浮かんだ奇妙な情景を思い出す。
「あの映像は一体何だったんだろう? なんか……泣いていた女の人がママに似てたような……わかんないなぁ。まあ、とにかくお風呂に入ろう!」
包帯を外して、湿布も外してみる。
けっこう青くなっていたものの、痛みはそれほどなかった。
ダマスクローズの甘い香りが充満する浴室に入ると、湯船に滑り込んで、腫れた足先だけを外に出す。
藤田健斗だっけ?
やたら皮肉ばっかり言ってたけど……
でも、本当に私を助けようと思って
危ないことをしてくれたんだよね
かなりな長身、ラフな格好をしながらもなんとなく清潔感のある風貌だった。
黒ずくめの右手に巻かれた真っ白の包帯を揺らしながら帰っていく姿が、頭に残っている。
他人からあんなにずけずけと
叱られた事もなかったから、
反抗しちゃったけど……
ちょっと悪かったかな?
部屋に戻ったかれんは、優しい看護婦さんに教えてもらった通りにテーピングを巻く。
ふと、ドクターが足を診てくれているときの横顔が浮かんだ。
先生の名前……天海……何だっけ?
あ、名刺をもらったわね。
メイクポーチのポケットに差し込んだのを思い出して、カバンを探ってみた。
貸してくれたハンカチも一緒に入っている。
きっちりとアイロンがかかったブランドのハンカチだった。
〝天海 宗一郎先生〟か。
ふふ、名前も真面目そうね。
その名刺を財布に入れておこうと、またカバンの中に手を入れると、見慣れない黒のカードケースが出てきた。
「あれ? なにこれ! 私のじゃないわ。どうしてこんなものが私のカバンに?」
記憶に頭を巡らせる。
「道路で倒れて……いや、倒された時……」
かれんのバッグの中のものが幾つか外に飛び出ていたようで、車にのせてもらった後に、天海がザッとかき集めてバッグの中にしまってくれたのを思い出す。
「もしかして……藤田 健斗の?!」
その時に彼のポケットから落ちたものも一緒に バッグに入ってしまった可能性は高い。
健斗が病院の受付で、〝ここの診察券を持っているはずだ〟と、しきりにポケットを探っていたのを思い出す。
「そっか、これを探していたんだわ!」
その黒いカードケースを開くと、ありとあらゆるショップのメンバーズカードの中に、診察券も入っていた。
「あ、ここの歯医者さん、私も行ったことがある」
かれんはカードをめくっていく。
「へぇ、このお店で服を買ったりするのか……なんかイメージとは全然違うけど、まあでも、わりとセンスはあるようね。背も高いし」
そう言ってパラパラと見ながらも、彼に繋がるヒントを探す。
「まぁだからって、モデルとかショップ店員には見えないわね。とにかく軽いっていうか……女の子に対しても失礼だし! それに引き換え、あの先生は紳士的だったなぁ」
いずれのカードにも『藤田 健斗』と、そう名前が刻んである。
「へぇ、CDショップね……どんな音楽が好きなんだろ?」
最後の見開きには、なぜか山の風景写真が入っていた。
なんだか懐かしさを感じるような素敵な景色と、対になるもう一枚写真には、男の子が肩を組み合って写っていた。
「この写真……小学生くらい? 本人? あ……まさか、子供がいるとか?!」
そこまで口にして、かれんはそのカードケースをパタンと閉じた。
「どうでもいいけど……でもきっと探してるわよね」
かれんは大きく溜め息をついた。
「はぁ……もう……ややこしいヤツ!」
どのカードにも名前だけで、住所は書いていなかった。
確か、このマンションのすぐ近くにある『RUDE Bar』から川沿いに北上した所に住んでいると、そう言っていた。
「オンボロアパートって言ってた? そんなのがあの高級住宅街の一角にあるって?! ウソでしょう? 見たことないけど……」
かれんは大きなあくびをした。
「はぁ……もうこんな時間かぁ。そうね……明日は休みだし、散歩がてらちょっと届けに行ってみようかな」
不安定に立ち上がったかれんは、月が覗くガラス張りのバルコニーに足を向け、ザッとカーテンを閉めた。
少し足を引きずりながら、そのまま寝室に入るとベッドに倒れ込む。
「ホント、変な一日だったなぁ」
寝付きは悪くない方だったが、今日起きた様々な出来事に、頭が疲れているように感じた。
何かが浮かびそうになって、声を発しようとした瞬間に、かれんは静かに眠りに落ちていった。
第3話『落とし物』 -終-