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『記憶の森』 Leave The Forest ~失われた記憶と奇跡の始まり~  作者: 彩川カオルコ


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第24話『帝央キャンパス : レイラと健斗』

第24話『帝央キャンパス : レイラと健斗』


黒板のコツコツという音だけが響いていた。

ヒールの音が鳴らないように、忍び足で入る。

後ろの出入り口から一番近い席に身体(からだ)を滑り込ませた。

コツコツという音が鳴り始めたら頭を上げて、音が鳴りやんだら顔を伏せて寝たふりをする。


「なにやってんだろ、私。〝だるまさんが転んだ〟じゃないんだから」


自嘲的(じちょうてき)に笑った。


ふと、ある曲が脳内再生される。


   ねぇ あなたの目は 誰を探しているの

   近すぎて 遠すぎて ここにいることすら気付かない

   ねぇ あなたの目に 私は映っているの

   まるで蝶を 見るように 優しい視線はくれるけど


    いつもそばであなたを見上げている

    春がきても 秋が終わっても

    私がいつもここにいることを

    今もあなたは気付かない



頭を上げ下げしていると、二つ空いた座席()しにいる学生が、それに気付いた。

しきりにこちらを気にしている様子が目の端に映る。


「このように〝当たり前〟と思えることを突き詰めるのが、大学数学の一側面です。一見すると当たり前に見えることの前提を明らかにし、直感だけで考えて間違えた議論をしないようにするために、定義は大事なのです」


准教授の低音の声だけが、教室の中に響き渡っていた。

内容が全く把握(はあく)できないことも相まって、その心地いい声を聞きながら本当に眠りに落ちそうになる。

しばらくして、長机の向こうの方からスッと小さな紙が差し出されたが、気付かないふりをして頭を伏せたまま、この講義の終わりを待った。


「それでは今日の授業はここまで。レポートの提出が二週間後に迫っているので、質問のある人は早めに来るように」


男子学生たちがガタガタと音をたてて、次々に退室していく。

黒板を消している准教授の周りには、既に多くの女子大生が詰めかけ、師を取り巻く。


「藤田先生、質問いいですか?」


「なに?」


「ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学、どちらが正しいんですか?」


「お、悪くない質問だな、でも残念ながらどちらも正しいってのが答えだ。どんな公理を採用するか、出発点をどこにおくか、それだけの問題なんだ。それによって、のちのち展開される理論は変わって来るってわけ。ヒントになったか?」


「あ、はい。ありがとうございました!」


「次、私!」


「どうぞ」


「三年になったらゼミが始まるじゃないですかぁ? 数学科にはどんなものがありますか?」


「ジャンルで言えば、解析、代数、幾何、位相、統計、数値解析ってとこだな」


「じゃあ、藤田先生のゼミは?」


「私、先生のゼミに入りたい!」


「私も!」


「こら!そういう邪念を捨てて、自分将来に結び付くジャンルを選べよ」


「やだ、つまんない。キャンパスライフは楽しまなきゃ!」


師は深々と溜め息をつく。


「先生!」


「何だ」


「モデル、やってましたよね?」


周りが騒然となる。


「私、ワールド・ファッション・コレクション、観に行ってたんです! 先生がランウェイ歩いてるのを見ちゃって、ホントびっくりして! ほら、写真見る?」


「わぁ! 見る見る!」


「はいはい君たち、質問がないなら教室を出て」


「先生!」


「まだあるのか?」


「このあと学食でランチを一緒に食べませんか?」


「今日は授業がこれで終わりだから、昼飯は食わないで帰るよ。他には?」


「レイラと付き合ってるんですか?」


「君たち……未来の女流数学者になってくれるんじゃないのか?」


「だって気になるんだもん」


「……ったく! レイラはただの従妹(いとこ)だ。母方のな。もういいか?」


「そうなんだ!? 良かった!」


「じゃあ先生、さようなら」


まいったと言うように頭を振りながら、本を束ねて教室を出ようとすると、最後列(さいこうれつ)で伏せて寝ていた学生がスッと身を起こした。


師はまた溜め息をつく。


「学部の違う学生がどうしてそこに?」


「数学に興味が湧いたので」


「嘘つけ! いつからいたんだ? レイラ・ヘイスティング!」


准教授はゆっくりと後方にむかう。


「終わりの方よ。健ちゃんのつまんない授業なんて長く聞いていられるわけないじゃない」


「フン! だろうな。じゃあ何の用だ?」


「〝ただの従妹〟がお仕事の依頼に来たってだけよ」


レイラは机の上の紙をクチャクチャに丸めて、健斗に投げてくる。


「それ、捨てといて」


「なんだこれ。なになに?〝レイラさん、ファンです。良かったらお食事でも〝って……これ、今の授業中に?」


レイラはこっくりと頷く。


「おいレイラ! うちの生徒の心を乱すなよ。日本の将来を担う数学者の卵だぞ」


「知らないわよ! もうここを出るんでしょ? さあ、打ち合わせするわよ。モテモテの先生」


レイラはさっさと教室を出る。


「お前だってモテモテじゃねえかよ」




「あれ? 今日はこの車、オープンにしてないの?」


窮屈(きゅうくつ)そうにレイラが乗り込む。


「あのな、大学来るときにオープンカーで乗り付ける教授がいたらどう思うよ?」


「意外とつまんない体裁(ていさい)を気にしたりするのね? いいじゃない、〝チャラい大学教授〟なんだから」


「〝若い〟だろうが!〝チャラい〟は禁句だ」


「なんでよ?」


「最近よく言われるワードなんだ! 俺もいい加減辟易(へきえき)としてる」


「今さら? あのね健ちゃん、オープンにしてなくても、こんな高級スポーツカーで乗り付けてるだけで充分チャラいの!」


厳粛(げんしゅく)な数学准教授をつまえて言う言葉か? 俺の授業は東大にも引けをとらないレベルなんだぞ!」


「ホント……健ちゃんって両極端よね? ま、そこがまた、いいんだけど」


レイラはサングラスをかけて、シートベルトを締めた。


「何だって?」


「何でもない」


車が走り出す。


「どこかで昼飯だな、俺の店でいいか?」


「俺の店って、一体どの店?『RUDE(ルード) Barバー』? それとも……」


「今日は近くでいいよな? 『サンセット・テラス』にしよう」


ハンドルのボタンを押して、運転をしながら電話する。


「あ、支配人? お疲れ様。今日は混んでる? ……そう。じゃあ今から二人で行くので。よろしく」


「健ちゃんってさ」


レイラが顔を近づける。


「何だよ?」


「まるでやり手の社長さんみたい」


「レイラ、それは冗談で言ってるのか? それとも……何か知ってるから?」


「あっ! もしかして! CEOの話、受けるの?」


健斗はハンドルを握ったまま肩を落とす。


「やっぱり聞いてたのか……〝ヘイスティング〟パパから?」


「うん。パパが藤田のおじさんから直接聞いたみたいよ」


「ひょっとして……俺がお前とモデル出演したりしてるのも親父は……」


「知ってるはずよ、パパに聞かれたし」


「マジか……」


健斗はハンドルにうなだれる。


「そんなに落ち込むことはないわ、〝ちゃんと大学で真面目に先生業もこなしてる〟って報告しておいたから!」


「お前な! どの立ち位置なんだ? スパイかよ! 上から目線だし」


「いいじゃない、オールマイティーなんだから。これからの時代は多才で考え方の柔軟さが大切なのよ!」


「まいったな……」


「ふふっ。なんか魂が抜けちゃったみたいね。着いたわ、美味しいもの食べなきゃ!」




第24話『帝央キャンパス : レイラと健斗』- 終 -

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