第21話『終止符』
第21話『終止符』
由夏と葉月がかれんの家に引き上げて、『RUDE Bar』の奥のボックス席には、かれんと健斗の二人だけになった。
傍らで健斗が静観するなか、かれんは大きく息を吸う。
「三年前、彼が転勤することになって〝一緒にアメリカに来て欲しい〟って言われたの。私に〝仕事を辞めてついてきてほしい〟と。私がやっとの思いで『ファビュラスJAPAN』を立ち上げて、軌道に乗り始めた頃よ。起業する前からも色々話し合って、相談にも乗ってくれてて、彼は私の仕事を尊重するって言ってくれてたの。だから、一番の理解者だって疑いもしなかったわ。それなのに……彼は、私にその仕事を辞めさせようとしたの。〝一緒にいるのが最優先だろ? 申し訳ないけどかれんが折れてくれ〟って言われて……呆然としたわ。理解してくれていると思ってたから尚更、裏切られたような気持ちになった。結局彼は、私を喜ばせる為に理解してるふりや協力してるふりをしていたのよ。それが優しさだと思ったんだと思う。でも彼と私は価値観が違うってことに気付いてしまって……お互いが足枷だとしたら、もう一緒にはいられないって、はっきりわかったの。それを彼に話したら……彼は豹変した。私が知っていると思い込んでいた彼とは、明らかに違ったの。お互いに甘えて生きていたのかもしれない。真正面から向き合って確かめ合うことを避けて、ずっと尊重しているふりをして。それが判ってからは……気がつけば相手から離れることばかり考えてた。ひどいわよね。追いかけてきて欲しくもなかった。最終的には、プライドの高い彼が追いかけてくることもなかったの。まるでハッピーエンドよ」
かれんは息継ぎでもするように俯いて、膝に置いた手をグッと握った。
「三年も経ってるのに、まだ虚しい気持ちが残ってるなんて、自分でも驚くわ。きっと、誰かのために生きたり、心揺さぶられるような恋愛もしないまま、ただ反発するように仕事をして来ちゃったから、心が取り残されたままだったのね」
静かに頷いていた健斗が、そっと話し出した。
「そうか……なら、あのジャズバーの再会は、ちょっとキツかったな」
「うん……辛いっていうほど強い感情があった訳じゃなかったけど、でも彼と会うのは違うような気がした」
「あっちは忘れられなかったみたいだけど」
「そういうところ、ちっとも変わってなくて……前と同じように私の心に踏み込もうとしてきた。だから私は無意識にそれを全力で阻止しようって、そういう気持ちが湧いたみたい。好きとか嫌いっていう感情じゃなくて、彼はもう友達でもないし、当然、もう恋人にもなりえないし。ただただ、私の知らないところで幸せになって欲しいっていう……そんな思いだけがある」
「なんかそれ、解るな」
「うん。それでもやっぱり別れる時はね、色々あったのよ。仕事が手につかないくらい気持ちを乱されて、恨んだりもした。私が私じゃなかったし。そういう時は、きっと彼も辛いんだからって、思うようにしてた。ホントのところは解らないけど、男の人だって、そういうときはキツくて仕事にも支障が出たりすることも、あるわけでしょう?」
「そりゃそうさ、いきがってたって、男も女も所詮同じ人間だからな」
「葉月にはあんな風に言われたけど、ケリを着けるも何も、そもそも何もないんだから、もう関わっちゃ駄目なんだと思う。彼自身よりも、彼と居た頃の自分のことが嫌いになりすぎて、もう封印したかったのかもしれない。人生を一緒に歩むべき相手じゃないって、確信したの」
健斗はふぅと息をはいた。
「それが分かれば、充分だ。もう悩むこともないな」
「そうね」
「もう三年前のお前じゃなくて、とっくに進歩した新しい三崎かれんなんだろ? だったら、葉月さんにちょっと刺激されたぐらいで暗い顔する必要もないんだよ。引きずってると思い込んでたのは、お前自身だ」
「ホント、そうね」
「本当のお前は、もう充分前を向いてる。そうだよな?」
「ええ」
「よし! そうと解ったら、飲み直すか!」
そう言って健斗はようやくかれんの方を向いた。
「お前……」
「え?」
「もしかしてお前、自分が泣いてるのに気付いてないのか!?」
かれんの頬には幾筋もの涙がこぼれていた。
拭おうとする手を制して、健斗がそっとハンカチを差し出す。
「ありがとう」
「泣きたいなら、ちゃんと気が済むまで泣いたほうがいい。あ……俺、ここにいないほうがよかったらあっちで……」
かれんが健斗の袖をつかんだ。
「ううん、ここにいて。何て言うか……言って欲しかった言葉を言ってもらったような気がする」
下を向いたまま、かれんが答えた。
「分かった」
しばらく静かな時間が流れた。
かれんが化粧室に立って、健斗は波瑠のもとに水を取りに行く。
「かれんさんは、大丈夫なんですか?」
察しのいい波瑠が心配そうに尋ねた。
「うん、解決はしてるみたいだ。ただ……どうしてやったらいいか、俺にはわかんねぇわ。波瑠ならわかるか?」
波瑠も、うーんと腕組みをする。
「ボクも女性の心はわかんないですね……ただ、〝聞いてもらうだけでもずいぶん楽になる〟って、お客さんから聞いたことはあります」
「へぇ……波瑠は女性客にモテモテだからな。その年にして恋愛マスターの道、まっしぐらか?! やるじゃん!」
「なに言ってんですか!」
「頑張れよ、マスター! あ……戻ってきた」
「健斗さんこそ! はい、これ。ミネラルウォーターです」
「サンキュ」
席についたかれんはすっかり落ち着きを取り戻していた。
「ほら、水」
「ありがとう。心配かけちゃったわね。ごめんなさい」
そう言ってかれんはごくごくと水を飲んだ。
「やだ、まだそんな顔して。もう大丈夫だってば!」
「ああ……」
「まあ……苦しいのも、私の中に感情があるっていう証だからね、人間にはたまには必要なのよ」
「なんだ? 急に悟り開いたみたいに。そこは逃げたりシャットアウトしたりはしないのか? いつも真っ向勝負?」
「まあ、逃げて心を守らないといけない時もあるかもって、最近ようやく思えるようになって来たかな。少なくともこの三年で、少しは成長したかも」
「そっか」
「女が仕事をするのって、意外と大変なこともあるのよ。ま、大学の先生にはわからないかもしれないけどね!」
「は! そんな皮肉を言えるようになったんなら、もう大丈夫だな?」
笑顔を見せながら、かれんは深々と頭を下げた。
「お酒の席とはいえ、ご面倒をおかけしました」
「なんだ今さら? あ! とか言ってお前、まだ酔ってんな?!」
かれんはふふっと笑ってみせた。
時計の針は十二時に差し掛かろうとしている。
「おっと、魔法が解ける時間だぞ! 送って行く。おーい、ハル! 帰るわ」
立ち上がりながら、かれんはまた笑った。
「数学准教授でもシンデレラは知ってるのね?!」
「バカにするな! 俺の書斎にも童話くらいはあるぞ!」
「えーっ、似合わない!」
にこにこしながらやって来た波瑠が話に加わる。
「でも確かに、健斗さん宅のあの巨大ライブラリーになら、童話ぐらいあるかもしれませんね!」
「なにそれ! あ、まさか童話を読んでもらわないと寝られないとか?! そんなわけないか、似合わないよね?!」
波瑠とかれんが顔を合わせて笑いだした。
「波瑠、お前まで笑うな! ほら、もう帰るぞ!」
「あはは、じゃあ波瑠くん、色々ありがとうね!」
「ありがとうございました。由夏さんと葉月さんにもよろしくお伝え下さいね」
「家に帰ってからも一波乱ありそうで、なんだかコワーイ!」
「あはは、お気をつけて。おやすみなさい」
「また来ます。おやすみなさい!」
階段を登りきって『RUDE bar』の扉を開けると、冷たい空気が全身を包み込んだ。
火照った頬を風が優しく撫でていく。
心地よかった。
大きく深呼吸する。
「なんかごめんね、由夏や葉月の分までごちそうになっちゃうなんて……」
「いいって、彼女達にも世話になったしな」
「ありがとう」
「また飲もうって、伝えといて」
「うん。ねぇ、いつもああやってツケで飲んでるの?」
「あ……まあな」
「ふーん、へんなの」
「そ、それよりお前、けっこうフラついてるぞ」
「大丈夫大丈夫、ああっ!」
かれんのヒールの踵が溝の金網にはまってよろけた。
とっさに健斗が支える。
「おい! 大丈夫じゃないだろ!」
「ああ! またヒールが……」
そう言って、かれんは片方のパンプスを脱ぐ。
「お前! こんなとこで何やってんだ!」
「ああ良かったぁ……無事だった」
「なんだ? 靴の心配かよ!」
「あなたと初めて会った時には、お気に入りのパンプスが折れちゃったからね」
「ああ……アレな。いいから、早く履けよ! すっ転ぶぞ!」
靴を履きながらまたよろめく。
「おっと! ほら、危ないだろ!」
かれんが笑いながらポツリと言った。
「あの時の天海先生、可愛かったな」
「天海? ああ、あのドクターか? 〝可愛かった〟だと?! 百歩譲って〝紳士的〟とか言うならまだしも」
「私の壊れた靴をテーピングテープで治療しちゃうんだもん、すっごく嬉しそうな顔しちゃって」
「オンナってそういうのにキュンと来たりすんのか? 簡単だな」
「うん、キュンときたかも!」
「お前なぁ……デレデレしてんじゃねぇよ! ほら、信号渡るぞ!」
「あなたの家は北側でしょ。渡らなくても……」
健斗はかれんの腕を持つ。
一方の手を腰に回して支えた。
「あのな! こんな酔っぱらい、放置して帰れるかよ、ほら急げ!」
第21話『終止符』- 終 -




