第12話『bar Blue Stone : 再会』
スマホが振動して、由夏から二次会の場所がメールで届いた。
「えっ!」
それはよく知っている店だった。
Jazz bar 『Blue Stone』
「ここは……」
店の前まで来て、足がすくむ。
かつては大好きな店……だった。
でも苦い思い出がかれんの足を重くしていた。
もう昔の話……
さすがに、こだわる理由もない。
店の入り口に向かって降りていく、赤い階段の両壁にちりばめられてた沢山の写真。
それもあの頃のままだった。
当時のように、一つ一つ額縁を眺めながら降りていく。
デューク・エリントン
マイルス・デイヴィス
アート・ブレイキー
ロン・カーター
ジョン・コルトレーン
ルイ・アームストロング
サラ・ヴォーン
エラ・フィッツジェラルド
ナット・キング・コール
サリナ・ジョーンズ
あの頃と変わらない、懐かしい重厚な中扉に手をかける。
思いきって開け放つと、華やいだ喧騒と古いJAZZが耳に飛び込んできた。
控えめで落ち着いた照明。
正面にあるカウンター席から、左手に繋がる通路が見えてくる。
かれんは勝手知ったるように、奥に進んでいった。
あれほどの大所帯なら、思い当たる部屋は、最端の個室しかない。
途中、開けたホールがあり、いくつも並ぶ重厚なボックスシートは多くの客で賑わっている。
その向こう側の一段高くなったステージには、当時そのままにドラムセットが置かれていた。
あの頃はあの場所で友人が演奏したり、しょっちゅうパーティーを開いたり、煌めいた毎日がこの場所と共にあった。
今はひっそりと佇むその楽器を前に、忙しそうに行き交うウエイターも知らない顔ばかりになっていた。
たった数年で様変わりしたのは、自分だけではないということを実感する。
三年前まで、かれんはもっぱらこの店の常連だった。
一人ではなく、当時付き合っていた彼と。
十代から二十代にかけて、学生時代の宝石のような時間。
自分達が生まれる前からある、素晴らしい音楽を多く知っている彼に影響を受けた。
そんな彼の事が頼もしく、大人に見えて、いつもここで一緒にいた。
あの日までは……
ヤダ、なに思い出してるんだろ。
辺りを見回すと、かれんのまぶたの奥に、ここで知り合ったあらゆる人々の残像が浮かんでは消えて次々と思い出される。
身内のように親しくしていた彼らはここを旅立った今、大きな成功を手にしてそれぞれの道へ向かっている。
再び奥の大部屋に向かってゆっくり歩いていくと、向こうからこちらに向かって来る人影が見えた。
ここから先はあの個室しかないので『ファビュラス』の関係者かモデルの誰かだろうと思った。
長身に細身のスーツ。
ノーネクタイで袖をまくって……
なんだか〝由夏好み〟のスタイル……
あんなモデル、いたかしら?
「あ!」
「お疲れー」
かれんは目をつり上げて、声を荒げる。
「お疲れーじゃないでしょ! あなたね! いったい何がどうなって、こんなことに?!」
混乱して言葉にならない。
「俺だって驚いたぜ、三崎かれんプロデューサー! さっきの一次会で由夏さんから大体のことは聞いたけどな」
「え! じゃあ由夏に知り合いだって話したの?」
「話すわけない! だって俺たち、初対面なんだろう?!」
かれんは呆れたように空を仰ぐ。
「なに言ってるの! ウソをつかせたのはあなたでしょ?!」
「あーそうだっけ? なんか、めんどくさかったし。マズかった?」
「マズいとか、そういうのじゃなくて……」
「よぉ。かれん」
背後からバリトンの効いた声がした。
え? この店で……その声?
一瞬凍りついたように体が固くなった。
「かれん、オレだよ」
ゆっくり振り向く。
「ハル……なんで……」
三年ぶりに口にした名前だった。
「元気だったか?」
「……どうしてここに? 帰国してたの?」
「ああ、実は少し前にな。実はオレ、今日のイベントも見に行ってたんだぜ」
「……そう」
かれんは少し目を伏せた。
「あ! そこの彼、今日出てたモデルさんじゃん? そうだよな?」
藤田健斗が居たことをすっかり忘れていたかれんは、慌てて振り返る。
「俺ですか? ああ、まあ……」
「近くで見てもイイ男だなぁ。さすがにデカいね、オレと変わらないくらい? もしかして、かれんのお気に入りモデルかな?」
俯いたかれんの、なんとも言えない表情を横目に、健斗がいささか声高に言った。
「いや俺、トイレ探しに出てきただけなんで。どこにあります?」
「そこを曲がって、左」
ハルと同時にそう言ったかれんは、更に気まずい顔をした。
白けた空気が流れる。
「あーわかりました。じゃあ三崎さん、失礼します」
軽い言葉を残して、藤田健斗は二人が指差した方向に歩いていった。
「かれん、元気そうだね。また綺麗になったな。今日もずっと見てたのに、全然気付いてくれなかったから寂しかったよ」
かれんは依然、俯きかげんで話す。
「由夏が……知らせたの?」
「そう。オレさ、実は由香に相談してたんだ。かれんとやり直したいって。あれから誰とも付き合ってないんだって? だったらオレたち、もう一度ここから始めるのはどうかなって」
かれんは顔をあげる。
「なに……言ってるの」
「オレ、別に変なこと言ってるつもりはないよ。今ならかれんの仕事だって尊重してやれるし、やり直せると思うんだ、オレ達」
「それは……無理だわ」
「なんで? 誰か好きなオトコでもいるのか?」
「そういう事じゃなくて……そんなに簡単じゃないって言ってるの」
「じゃあ!」
ハルがグッと近づいてくる。
「試してみればいいんじゃないか。かれんだって、オレのこと忘れてないはずだ」
そう言ってかれんの肩に手をかけた。
「ハル!」
かれんはサッとその腕を外す。
「どうして? オレ達、相性も良かったし、かれんだってオレのこと……」
ハルはかれんの両肩を掴んだ。
「やめて! 離してよ、お願いだから……」
しばらく沈黙が続いた。
「……由夏は、あなたがここに来ることを知ってるのよね?」
「ああ」
「じゃあ……先に入ってて。私は化粧室に寄ってから行くから」
「わかった」
歩き去るハルの後ろ姿を見て、ようやく息が出来るような感覚になる。
かれんはその場にしゃがみこんだ。
鼓動が激しい。
なぜこんなに苦しいのか。
かつて信じていた人のことを、なぜこんなにも怖いと感じたのだろうか。
ハルのことは本当に好きだった。
いつも行動的で自信に満ち溢れていて、憧れさえ感じていた。
しかし、彼はかれんの仕事の理解者ではなかった。
誤解と嫉妬で、彼女の道を阻む存在になったとき、彼は仕事で渡米が決まった。
寂しさよりも解放感を感じた瞬間、かれんはようやく別れる決心をした。
話を切り出してから彼が渡米するまでの間は、本当に大変な日々だった。
その頃の彼には、かつての自信に満ち溢れた姿は微塵もなく、最後は逃げるように別れた。
それから三年。
かれんは、かれんだけの人生を生きてきた。
もう心の中には、彼の占める割合など存在しない。
それゆえ、時間は充分経って過去のものとなっているんだと、そう思っていた。
それでも、やっぱり動揺はするものなのね。
大きな溜め息を一つついて立ち上がると、廊下の脇の壁にもたれてスマホを耳に当てた。
「由夏、私だけど。驚いたわ……ハルが来るなんて」
「驚かせてごめん、今こっちにハルが来たわ。会ったのね?」
「うん。ねぇ由夏、申し訳ないんだけど、このまま帰っちゃダメかな?」
「どうして? ハルと話すいい機会だと思ったんだけど……」
「うん。私ね、会ってみて思ったんだけど、ハルとはもう……」
「どうして?」
「あの頃の私自身を、思い出したくなくて」
「そっか……わかった」
「ごめん。由夏」
「私の方こそごめん! 無神経なことして」
「ううん、由夏の気遣いだってわかってる。今日はこのまま帰るね。あ、行けなくなってごめんなさいって、皆さんに謝っといて。じゃあ……お疲れ様」
電話を切っても、かれんはしばらくその場に立ち尽くしていた。
壁にゆったりと、もたれ直す。
エラ・フィッツジェラルドの優しい声が流れてきて、目を閉じながら聞き入った。
Look at me (私を見て)
(まるで降りれなくなった子猫のようになってしまうの)
(そして雲にしがみつくような、不安定な、そんな感じ)
(何故かわからない)
I get misty just holding your hand.
(ただあなたと手を取り合っただけで霧の中に迷い込んでしまう…)
あの頃好きだったこの曲を聞くと、当時の情景が蘇ってきて、かれんの心を揺さぶる。
沸き上がる色々な思いの中にある苦悩が、かれんの表情を曇らせた。
「おお『Misty』か、イイね」
すぐ近くで声がして驚いて振り向く。
「エラのバージョンもメロウでいいな。でも俺はサラ・ヴォーンも好きだけど」
そう言ってかれんの顔を覗き込んだ健斗が息を飲む。
「お前……ナンテ顔してんだ?!」
「え……」
「来い! 出るぞ!」
いきなり藤田健斗に手首をつかまれたかれんは、すごい勢いで引っ張られ、そのまま階段を一気にかけ上がる。
「ち、ちょっと!」
第12話『bar Blue Stone : 再会』- 終 -