第1話『出逢い』
『記憶の森』Leave The Forest
~失われた記憶と奇跡の始まり~
川縁の風が優しく木々を揺らしている
君がすべてを思い出してしまったその時も
川縁の風が優しく木々を揺らしているといい
俺が見たものを君にも見てほしいから
その傍らにもしも一緒にいられたなら
どんなによかっただろう
これは生涯で最も利己的な選択
でも…
たまらなく君が恋しくなるのだろう
ー 第1話 出逢い ー
「あ……もう雨、やんだみたいね」
そっと空を見上げながら、彼女は赤い折り畳み傘を閉じた。
闇夜を見上げる。
月の姿はない。
いつもなら駅からまっすぐ北上して、最短ルートで自宅マンションに向かうのだが、突然の土砂降りにバックに入っていた華奢な傘では ずぶ濡れになってしまいそうだったので、彼女はいつもはあまり通らない路地に入ってひさしを辿り、雨をしのぎながら自宅へ向かっていた。
すうっと風が吹く。
びしょびしょに濡れた傘が手からザッと滑り落ち、いつもバッグにつけて大切にしているキーチェーンに引っ掛かった。
「あっ!」
シャリンという音と共にキーチェーンが外れて地面に落ちていくのが、まるでスローモーションのように彼女の視界に映る。
慌てて拾おうとしゃがんだ時、頭が一瞬真っ白になって、見たことのない光景が脳裏に浮かんだ。
森の中をじゃれ合うように歩く、2人の男の子と、小さな女の子。
次に見えたのは、女性が泣き叫んでいるようなシーン。
誰?!
ん? もしかして、ママ……?
ハッとして目を見開いた。
「なに!? 今の……」
我に返ると、車道に落ちたキーチェーンに手を伸ばしたままの体勢だった。
「ああっ!」
バランスを崩して前へ倒れそうになった瞬間、キラッと車のヘッドライトのような二つの光が見えて、彼女はその眩しさに目を細める。
その瞬間、強い力で突き飛ばされ、体が宙に舞うような感覚がした。
そして、直後にドンという衝撃と共に、鈍い痛みが体に走る。
タイヤのブレーキ音と共にヘッドライトが寸前でとまり、ガチャッと車のドアが開く音と慌てた靴音が聞こえた。
「君! 大丈夫?!」
声が聞こえる。
まるで体が地面に吸い付いているかように重い。
痛いのか、冷たいのか、わからない。
力を振り絞って、地面から半身を起こそうとする彼女に、すっと人が駆け寄って、肩を支えた。
あたたかい手の温もりが伝わってくる。
「どこか痛いところはない?!」
その男性は心配そうな視線で覗き込んでくる。
「あ……痛いところはあるけど……とりあえず大丈夫です」
彼女がそう答えると、その男性は彼女の体を支えたままの姿勢で首だけ別の方向を向き、大きな声を出した。
「君の方は? 大丈夫なのか?」
「ああ……まあ……」
別の男性の声がした。
誰かいるの?
っていうか……
なぜ私は道路に倒れ込んでいるんだろう?
そう思いながら、彼女がゆっくりその視線の方に目を向けると、そこには自分と同じように倒れている、男性の姿があった。
頭が混乱する。
この状況を整理しようとしてみたものの、やはり、わからない。
この人が、私にぶつかった?
それで私はころんで……
そんなこと、ある?
その時、倒れていた男性がグッと起き上がり、彼女に向かって声を荒げた。
「おい! どうして自殺なんてしようと思ったんだ?! 事故にあったヤツの関係者か? なんにせよ、後を追うなんてどうかしてんだろ!」
肩を支えてくれている男性が
「そうなの?」と彼女に聞いた。
「は? なんのこと?! 違います! なんで私が自殺なんか!?」
「だって、自分から車の前に出て行ったんだぞ! 飛び込もうとしてたんじゃないのか!」
「そんな! 誤解よ。どうして私が?!」
言い合う二人に、彼女の肩を支えている男性が割って入る。
「まあまあ落ち着いて。確かにそうも見えたけど、車との距離もだいぶんあったしね。違うんじゃないかな」
「そうよ、自殺だなんて! とんだ言いがかりだわ! 私はただ、大切な……ああっ!! そういえば、私のキーチェーンは?! どこ?!」
「キーチェーン?」
「ええ、とても大切なものなんです」
辺りを見回すと、少し離れた頃にキラッと光るものが見えた。
「あ、あった!」
男性はそっと彼女の肩から手を外し、その視線を辿りながら歩道のすぐ側まで行って、星がいくつも重なったようなチャームを拾って戻ってきた。
「これ……かな?」
「ええ! そうです。良かった!」
ホッとしたように受け取って、手の中にぎゅっと握りしめ、胸に当てる彼女を見て、男性は優しく微笑んだ。
「本当に大切なものなんだね」
「ええ、そうなんです!」
そう笑顔で答えると、後方に座り込んでいた男性が上半身をすくっと起こし、彼女を睨み付けて言った。
「は!? なんだそれ?! そんなもんを拾うために周りも見ないで飛び出したってわけか? なんて人騒がせな! 一歩間違えたら死んでたんだぞ! バカじゃねぇのか!?」
「バカ?! ひどい! そんなに前に出たりしてないわ、あなたがすごい力で押したからこんなに道のど真ん中まで来ちゃったんじゃない! ホント迷惑!」
「なにィ?! 迷惑だと?!」
「そうよ、大迷惑! 思いっきり私を突き飛ばして。怪我してたらどうしてくれるのよ! 危ないじゃない!」
「そら咄嗟に押すだろうよ! こっちから見てたら、車の前に飛び出して自殺するようにしか見えなかったんだからな。だから体張って必死で止めてやったのに、なんだ!? その言いぐさは!」
「そんなの、あなたのただの勘違いじゃない! 恩着せがましく言わないでよね!」
「な、なんだと?!」
再び男性が見かねて2人の間に割って入った。
「まあまあ、喧嘩はそこまでにして、とりあえず、彼女、一旦立ってみてくれる?」
男性は腕を支えながら彼女の腰をぐいっと持ち上げた。
「あ……ありがとうございます。痛っ!」
地面についた足に痛みが走った。
「ああ、左足をくじいているみたいだね。ほら見てよ、君の靴。あんなことになってるし……」
彼の視線をたどると、根本から折れたヒールが道路に転がっていた。
「えーっ! ウソ! この靴、お気に入りだったのに……」
男性は苦笑いする。
「もう! どうしてこんなことになるのよ!」
「そんなのお前が悪いんじゃないか!」
また後方から声がした。
「なんですって?! さっきも言ったけどね……」
「はいはい、また喧嘩……そこまでにしよう。ほら、今度はこっち向いてまっすぐ立ってみて。あ、痛い足は地面につけなくていいからね」
男性はポケットからハンカチを出して彼女に持たせた。
「あの……これは?」
「手をついたときに汚れちゃったでしょ。それで拭いて」
「あ……ありがとうございます」
男性は目をまっすぐ覗き込んでから、ゆっくりしゃがみこむ。
「ちょっと足首、触るね」
「あ、痛っ!」
「ああ、ここね。じゃあここは? ここ押しても痛い?」
「いいえ」
「そっか、まあ骨は大丈夫みたいだね。少し立っていられる?」
「はい、大丈夫です。なんだかお医者さんみたい」
その言葉に男性はクスッと笑った。
「よし、じゃあ今度は彼。まず立ってみて」
「いや、俺は……」
「いいから立って!」
そう言われて、男性は渋々立ち上がった。
「そう、まっすぐ立ってこっち見て。うわ、背が高いな! ちょっとしゃがんで目を見せて。ん……どこも打ってない? あ、ここ擦りむいてるね。とりあえず病院で手当てをしよう。じゃあ、二人とも車に乗って」
そう言って男性は自分の車を指差した。
「いえ、そんなの悪いです。そもそも、あなたにはご迷惑をかけただけだし……」
彼女はそう言って、落ちているカバンに手を伸ばそうと、ぎこちなく膝を曲げた。
「いいから、いいから。雨がまた降ってくると厄介でしょ、さあ2人とも乗った乗った」
そう言いながら、男性は彼女を背後からふわりと抱き上げる。
「うわ、ちょっと……」
「だって歩けないでしょ?」
「で、でも……恥ずかしいです……」
うつむく彼女の顔を、男性は優しい表情で覗き込んだ。
「なに? お姫様だっこは初めて? 靴も壊れてるんだし、気にしないで」
そう微笑む男性的に、彼女は静かに身を任せた。
男性はスムーズにドアを開け、後部座席に優しく乗せると、ドアを閉めながら振り向いた。
「さあ、君も! 乗って」
「いや……俺はいいですよ」
男性は、ばつが悪そうに頭をいじっている彼のそばに行ってその肩にそっと手を置いた。
「まあ、そう言わずに。あんな勢いで飛び込んだら、もしかしたらどこか打ってるかも知れないだろ。調べた方がいいって。助手席でもいい? ほら、乗って」
道路に散らばったものを集め、それを彼女の膝の上に置いてから車に乗り込んだ男性は、再度振り向いて優しく彼女に微笑み、エンジンをかけて車を走らせた。
第1話『出逢い』- 終 -