8 庶民派晩餐会
結局無理矢理首を縦に振らされて、嵐のように記者は去って行った。手付けとばかりに五〇円ほど握らされたので原稿用紙を買って家に戻った。
綺羅たちは朱音の店に向かった。貸本屋というのは初めてらしく賑やかな声が聞こえてくる。
洋一はその間に己の戦場たる台所に立っていた。前掛けをつけ、手拭いを頭に巻き気持を高める。なにしろ綺羅様が食べるのだ。これこそ負けられない戦いというものだ。
まず米を研いで羽釜で炊き始める。次いで里芋の皮をむいて煮る。茄子を入れるのは少し後。今回は烹炊長から教わった小エビの干物で出汁を取る方法を試してみる。
出汁と云えば味噌汁は少し豪華にすべく鰹節にしよう。味噌汁用よりも多めに用意する。梅干しを割るのにも使うし、なにより卵焼きにも必要だ。
卵焼きは久しぶりだったので、勘が鈍っていないか少し不安だった。いつもより油を多めに引いて焦げ付かないようにする。卵と冷ました出汁を混ぜて卵焼き器に流し込む。味付けは塩に醤油を少しが丹羽家流だった。
巻きがちょっと甘くなったが、その分巻き簾を強めに巻く。久しぶりの割にはうまくできたかな。洋一は頷いた。
そしてアジである。洋一はまな板を魚用に取り替えて出刃包丁を出す。魚は一気に、触る回数を減らし、よく洗い、そしてよく水を切る。繊細かつ大胆に一気呵成にやらねばならない。
銀色に輝く流線型の獲物を前に洋一は呼吸を整える。こいつはマムールであり、フォッカーなのだ。数少ないチャンスに、一気に仕留めなければならない。
覚悟を決めると洋一はアジに挑みかかった。頭を落とし、ワタを取り、三枚におろした。見込んだとおり鮮度が良く、皮が剥きやすい。こいつはうまそうだ。味わえるように大きめに切るとそこに薬味をたっぷりと刻んだ。
アジのたたきを皿に盛り付けると、三枚おろしの真ん中、背骨の部分は明日のために煮込んでおく。こちらの味付けは醤油に刻み生姜にしておこう。
漬物を刻んでいたところで朱音が厨房に頭を覗かせた。
「そろそろ出来た?」
ちょうど頃合いであった。
「うん、運んで」
煮物の皿から朱音が運び始める。
「これも良いかな」
珍しい声が聞こえたので振り返ると朱音の父、小野清治がオクラの梅肉和えに手を伸ばしていた。
「いやぁ、母さんと綺羅様が随分と盛り上がっちゃってね。今日はご一緒させていただくよ」
運んでいく先を見ると売り場にしている表の部屋を片付けて大きく空けていた。わざわざ座卓を隣から持ってきて八人分座れるようにしていた。
「せっかくだから、これはうちから出させてもらうよ」
そう云って朱音の父親は酒の入った徳利を掲げて見せた。今日は賑やかになりそうだ。
「本日はお招きに頂き誠にありがとう」
上座に座った綺羅が当然のごとく口上を述べていた。招いたと云うより押しかけたような気がしたが、当たり前のように皆それを受け入れていた。
「洋一君の作ってくれる夜食はノルマン以来大いに楽しませて貰っていた。本格的な料理は是非食べてみたかったところだったんだ」
そう堂々と云われてしまうと、洋一も何だか気恥ずかしい。
「ええ、まあこんなもので恐縮ですが、お召し上がりください」
いつだって機会はこちらの都合にお構いなしだ。それでも最善は尽くしたはずだ。洋一は祈る気持で頭を下げた。
「うん、おいしいなこの魚」
早速出た言葉に、洋一は小さく拳を握りしめた。
「アジの叩きでございます」
料亭みたいに気取って云ってみた。
「茄子の煮物は海軍風かな。海老の味が面白いよ」
清治が向こうから声を掛けてくれる。
「翔覽の烹炊長の味ですね。栄町の料亭で修行なされたと聞いてます」
槙さんが解説してくれた。
「うん、このオクラは母さんのだな。懐かしい」
兄の真一がしみじみと噛みしめていた。
「洋ちゃんいつでもお嫁さんに行けるからねぇ」
朱音の母、美春が上機嫌に杯を傾けていた。
皆和気藹々と料理を楽しんでもらえている。作った方としては嬉しい限りだった。
「アジの叩き良いな。酒もご飯も進む。今度家でも頼んでみようか」
しかも家族のみならず、綺羅様にまで食べて頂いた。本当に、料理が出来て良かった。
料理がよく、酒が入ってきて、会話も弾んでくる。
「……ええ、親爺は木曽の木こりの十一番目でして。だから一蔵って名前なんですが」
「もしかして長男でもないのに洋一くんなのは」
「ええ、一蔵の一からですよ。ちなみに自分は真一でして……」
「……兄ちゃ、兄貴も早いとこ嫁さん貰いなよ。帰るたんびに台所見ると心配になるんだから」
「おまえ心配するところが違うだろ」
「安心しろい。今色々進めているんだ。今度帰る時までには目鼻をつけとく」
「もしかして、布問屋の咲さん?」
「ど、どうしてそれが?」
「んー、そりゃぁねぇ……」
「……朱音ちゃんのお母さんが学校の先生だったとはねぇ。どうりで頭が良いわけだ」
「綺羅様は兵学校主席って伺いましたよ。それに比べればまだまだ」
「うん、でも十歳ぐらいまで勉強は嫌いだったんだ。教師と差し向かいってのは良くないね。私も尋常小学校に行ってみたかった」
皇族の初等教育は家庭教師らしい。尋常小学校で悪さばかりしていた洋一には判らない苦労があるらしかった。
「ただ十一歳のときのラテン語の先生が面白くてね。ガリア戦記のブリタニア編を教材にしてくれたんだ」
いきなり洋一には聞いたことのない単語が並べられた。そもそも十一歳でなんでラテン語なのだろうか。
「ブリタニア編というとあのヒームカ伝説の」
美春には判ったらしく少し驚いた顔をしていた。
「そう、ブリタニアに咲く花ヒームカと英雄カエサルの話」
綺羅はきょとんとしている洋一に顔を向けた。
「洋一君、君はカルタゴのカエサルを知っているかね」
「えっと、ガルタゴの首都をローマに遷都させた、カルタゴ皇帝、ですよね」
正直世界史は得意ではないのだ。
「皇帝はちょっと違うがまあいい。彼がガリア、今のノルマン辺りを平定したときに書かれたのがガリア戦記だ。その一編とされていたのがブリタニア編だ」
綺羅は箸を置くと虚空に地図を書き始めた。
「ガリアの西の海遙かに、ブリタニアと呼ばれる島がある。そこはヒームカと呼ばれる女王が治めていた。カエサルは軍勢を率いて海を渡り、これを討ち倒してヒームカを妻としたと」
「ノルマンの西というと、まさか秋津?」
「ところが当時の航海技術で秋津に渡るのは不可能なのだそうだ。一人二人漂着するならともかく、数千人の軍勢を率いていくのはいくら何でも無理だろう。だからブリタニア編はカエサルの壮大なホラ噺だろうと云われている」
「あれ、でも魏書には」
「そう、時期はずれるがこの話、邪馬台国の卑弥呼と妙に一致する」
朱音と洋一は顔を見合わせてしまった。秋津の創世伝説である、邪馬台国の卑弥呼。それをこんな所で聞くとは。
「紀元前後の欧州に秋津の存在はまだ知られてないはずなんだ。まだ地球が丸いかどうかも判らなかったころなのに。まあ魏書の方も書き写しが伝わるだけで、本物は唐の国と共に幻唐洋に沈んでしまったがね」
卑弥呼とヒームカ。偶然にしては妙に近く、同じと云うには荒唐無稽に過ぎた。
「その先生、秋津までの距離と当時の航海技術から、渡った場合のかかる日数を一緒に計算してくれてね、ラテン語の時間なのに」
随分と楽しそうに綺羅は振り返っていた。
「その先生は云ったんだ。算術が判ればこうやって計算できる。歴史を知っていれば卑弥呼とカエサルを重ねてみることが出来る。地質学が判れば当時果たして秋津の場所がどこなのか論ずることが出来る。そしてラテン語が出来れば、こうしてガリア戦記の原典を読むことが出来る」
聞いている洋一たちも、なんだか世界が広がっていく気がした。
「ブリタニア編は先ほども云ったがおそらくはホラ話だ。教材としてはどうかという声もあろう。思えばなかなか度胸のある先生だった」
「良い先生に出逢えましたね」
同じ教師である美春が感慨深く云った。
「そう、その先生のおかげで、私は前より学問が好きになった。いろんなものに興味が持てるようになった。今飛行機乗りになったのもそのおかげかもしれないな」
興味一つで兵学校の主席になり、ノルマン語もブランドル語も流ちょうに話して、そして飛行機に乗れば世界で一番強くて速い。紅宮綺羅は優秀すぎる生徒であった。
「さあそこで洋一君」
突然綺羅は部下の方を向いた。
「君の料理は素晴らしい。多くの学びとたゆまぬ研鑽でここまで来たのだろう。若いのに大したものだ」
酒が入ってきたのだろうか。そう手放しに褒められるとどうにも落ち着かない。
「アジはおいしいし茄子と芋もおいしいしオクラもおいしいし、何より卵焼きが素晴らしい。だが一つだけ云わせて欲しい」
すこし据わった眼で綺羅は洋一を見据えた。洋一の心臓が跳ね上がる。
「卵焼き、どうして甘くないんだ?」
「へ?」
「こんなに美味しい卵焼き、甘かったら最高だったのに!」
思っていたより子供っぽいことを力一杯主張されてしまった。なんだか可笑しくなってきた。
「ええぇ? 卵焼きが甘いのは子供だましですよぅ」
可笑しくなってつい不遜で馴れ馴れしい言葉になる。
「ああ、こいつねぇ、料理に絶対砂糖入れない派なんですよ。つまらない男なんですよまったく」
朱音が横から絡んできた。未成年二人は呑んでいないはずなのに。
「料理は料理、お菓子はお菓子。そこははっきりさせないとだろ」
最近砂糖が安くなってきたからかなんでもかんでも甘い味付けが流行っているが、洋一にすれば邪道も良いところだった。
「つまらないのは良くないなぁ少年」
さらに上司が絡んでくる。
「よし、君が次に学ぶべきは甘い卵焼きだ。よろしく頼むぞ」
どうやら今度の夜食を催促されたらしい。
「いやぁ、楽しみだ。実に楽しみだなぁ」
二家族と客人二人の不思議な一席であったが、紅宮綺羅はそれを全力で堪能していた。それを見ていると洋一たちも幸せを感じられた。
本当に良いひとときだった。