7 新聞小説執筆依頼
「さて、槙さんも合流したことだし次の店でも行こうか」
まだ遊び足りないのか。いささか呆れたところで、気まぐれに綺羅は洋一に顔を近づけた。
風も共にやってきてかすかな香りを伝える。驚く間もなく綺羅は耳元で囁いた。
「私の後ろ、甘酒の屋台の隣」
琴のような美しい響きで、しかし無粋なことを綺羅は囁いた。
「ハンチングにえび茶の外套の小柄な人物が見えるかね」
舞い上がっていた頭の中の花霞がかき消え、洋一の頭も冷えてくる。視線を素早く走らせると、確かにそれらしき人物がいた。
「えっと、丸眼鏡を掛けた……」
「そうそうそれだ。最近どうも私の身辺で見かけてね。どうにもやっかいだ」
もしかして先ほど一回転したときに確認したのだろうか。それにしても一体誰が。
「仕掛けるからよろしく頼むよ。さあ朱音ちゃん、他にお勧めのお店はないかな」
見当も付かないうちに綺羅様は歩き始めた。何も意に介さないように賑やかに。洋一たちもそれに追従すると、果たしてその人物も追いかけてきた。
ブランドルのスパイだろうか。帝都で白昼堂々とはとんでもないやつだ。洋一が思考を巡らせている間にも一行は路地へ入っていく。
更に裏道へ入って、その人物は一行との視線が切れる。速度を上げて角を曲がったところで、背後から押し倒された。
「こら、大人しくしろ!」
柔道の四方固めの様な動きで、洋一はその不審人物を取り押さえた。
「痛い! 痛いですぅ」
意外にあっさり声が上がる。それを聞いて洋一は思わず力を緩めてのけぞってしまう。
解放されてよろよろと立ち上がるその人物を、洋一たちはしげしげと眺めた。小柄な身体に朱音より短い髪。丸メガネの向こうの瞳がせせこましく動いている。元気な職業婦人といった様子だった。
「あら貴方は」
槙さんから声が上がる。
「はい、中京毎々新聞の、吉谷文絵ですぅ」
小柄だとは思っていたが、まさか女性だったとは。
「文絵さんですよ綺羅様」
どうやら槙さんは見覚えがあったらしい。
「おやまあ」
とぼけているが口ぶりから綺羅様も正体は判っていたらしい。云ってくれれば良いのに。
「で、ブンヤさんが一体何の用?」
知らなかったとは云え女性を押し倒してしまったことをを誤魔化すべく、洋一はぶっきらぼうに尋ねてみた。
「そうでした!」
そう叫ぶとせっかく立ち上がった女記者はもう一度地べたに座り込んだ。
「紅宮綺羅様、どうか、どうか我が社に取材をさせてください!」
人気が無いとは云え路地裏でいきなり土下座されてしまった。
「やだ」
しかし綺羅はぞんざいに断る。
「海軍省に許可はとっております。後は綺羅様のインタビューさえいただければ」
「だめ」
「そこをなんとかぁ」
外聞も何もかなぐり捨てて吉谷はすがりつく。
「美貌の宮様、紅宮綺羅様の従軍記ともなれば国民誰もが読みたがっているんですよ。新聞は飛ぶように売れて海軍も良い宣伝になって、私も社長賞間違いなしなんですよ。どうか一つ」
「ことわる」
普段なんにでも興味をもつ綺羅にしては珍しく取り付く島もなく拒絶している。
「自分のこといろいろ書かれるの、嫌なんですか」
有名人には有名人の苦労があるというものだろうか。洋一は尋ねてみた。
「いや、変な話になっているなあと見る分にはそれなりに面白いとは思っているよ」
まるで他人事のように綺羅は云う。
「だが取材となれば話は別だ。何時間も君にあれこれ質問され続けるなんて、うんざりするほど時間の無駄だ」
洋一はなんとなく判ってきた。この人は、自分の時間が興味の無いことに費やされるのがとにかく嫌なのだろう。
「大体何年前の何月何日に何をしたなんて、そんな細かいこと覚えているわけないだろう。めんどくさい」
おそらく最後の一言がすべての本音だろう。
「もう君があること無いこと書けば良いだろ。記者なんだから得意だろうそういうこと」
自分のことなのに実にぞんざいだった。
「細かいところは槙さんに聞けばいい」
しかし押しつけられた槙はたしなめるように云った。
「せっかくですが、私は綺羅様の戦場でのお働きは存じておりません。一介の女中ですので」
そういえば、槙さんは主人の身の回りの世話以外には努めて関わろうとはしない。空母の中でも綺羅様の私室で大人しくしている。
控え室から外に出るのは食事を運ぶときと洗濯の時ぐらいだが、四等水兵だろうと丁寧に挨拶すると評判だった。軍属として一等軍曹並としての地位は与えられているが、あくまでも彼女は女中として分を弁えて振る舞っていた。
「ですから綺羅様のお言葉が必要なんですぅ。舞鶴空襲の時にご活躍だとは聞き及んでいますが、詳細が明らかになっていなくて国民みんなやきもきしてるんですよぉ」
「だから判る人に聞いて適当に書けば良いだろ。なんなら君が飛べば良い」
「そんなぁ、車の免許だって持ってないのに飛行機だなんて。いや、車の免許は頑張ってるんですよ。これからの時代に取材は機動力だって編集長に掛け合ってなんとか」
話が脱線しているのを周囲の視線が冷ややかに眺めていたので、記者は小さく咳払いをして戻した。
「どこかに綺羅様のすぐそばで戦っていてよく見ていて、取材に応じてくれそうな暇で奇特な方はいらっしゃらないでしょうか」
そんな都合の良い人間、居るわけないだろ。そう思って腕を組んだ洋一だったが、妙な視線を感じてしまった。朱音と、綺羅様と、ついでに槙さんまで。
「洋一君、どうだねここはひとつ」
先ほどまでの素っ気ない態度とは打って変わって朗らかに綺羅は洋一の肩をぽんと叩いた。
「紹介しよう、私の部下の丹羽洋一三飛曹だ」
そう云って眼をぱちくりさせている文絵の前にずいと押し出した。
「おおむねいつも私のそばを飛んでいるし、多分暇だ」
「そんな、隊で一番の下っ端で一番の新参者ですよ」
勝手に仕事を押しつけられてはたまらない。
「ええっと、丹羽さん。いつから綺羅様の部下でして?」
おずおずと文絵が尋ねる。
「配属になったのは今年の七月からでして」
経験が浅いことをアピールしようとしたが綺羅は逃してくれなかった。
「安心したまえ、入隊前にうちに来ていて、舞鶴の一件にもしっかり関わっている。敵空母艦隊攻撃の時には私の二番機だったぞ」
文絵の目の色が明らかに変わる。
「それなら充分です! 新米搭乗員から見た紅宮綺羅様、いいですねそれもありです!」
「い、いやいや俺そんな文章書けませんよ。それに書いちゃいけないことだって多分あるし」
どう考えても面倒事だった。洋一としてはなんとか逃れたかった。
「んー、でも中学時代友達と一緒に本だか何だか書いてたじゃない」
朱音が余計なことを思い出す。
「やたらと修辞語句が多い詩だか小説だか」
文芸好きな同級生に誘われて一回調子に乗って書いてみたが、読み返してみて激しく後悔したので記憶の彼方に閉じ込めておいたのに。
「ああ、海軍省の検閲を受けることが条件になっているので機密とか軍機とかは大丈夫ですよ。足りない分は私が適当に足しますし」
記者は脚色する気満々の様だった。
「で、でも」
「お願いします!」
洋一の手を取ると、文絵はずいと顔を近づけてきた。
「綺羅様のお話に、国民の士気が、強いては我が秋津皇国の存亡が、ついでに私の社長賞が賭かって居るんです!」
無駄に大きい話と無駄に小さい話を並べて文絵がすがりつく。
「洋一君、受けてやれば良いじゃないか」
先ほどまで一顧だにせず断ってきたくせに、矛先が他人に向いた途端に綺羅様は面白がって勧めてくる。
困った洋一は見回してみるが、だれも自分の味方にはついてくれなそうであった。
「まあ校正ぐらいはしてあげる」
「確認ぐらいはしますよね綺羅様」
「はいはい」
「お願いします!」
これはダメな流れか。洋一は天を仰いだ。