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3 久しぶりの帰省

        鳥羽港 九月七日


 「休暇、ですか」

 もうすぐ鳥羽へ入港するところで、下士官搭乗員は通達を受けていた。

「そうだ。翔覽はドックに入って修理と改装だ。どうせだってことで搭乗員と整備員も五日ほど休暇を取ってよいことになった」

 居並ぶ下士官搭乗員を前に先任下士官の成瀬一飛曹が伝達した。休暇と聞いて喜ばないものは居ない。空気が浮き立つのが判る。

「舞鶴のドックは当面空かないから鳥羽に入ることになった。しばらくはこっちだからそのつもりでな」

 舞鶴空襲で大損害を受けた艦の修理と開戦による新造艦で、どこのドックも大忙しだった。特に舞鶴は土佐を初めとして損傷艦が列をなしているので、今年どころか来年もずっと休みなしだろう。

 おかげで翔覽も爆弾一発命中しているのにドックに入らないまま応急修理だけで済ませてきた。これで損傷から四ヶ月ぶりにようやくドックに入れる。

「人間の方もせいぜい骨休めしてこい。ちょっと遅れた盆休みだ。あてのない奴は宿舎を貸してもらえるからぶらぶらしてろ」

 幸い洋一はあてがあった。久しぶりに家に顔を出してみよう。欧州派遣など慌ただしく濃密な時間を過ごしていたが、考えてみれば翔覽配属になって二ヶ月しか経っていないのだ。

 鳥羽港は古くは風待ちの港として知られ、水軍のねぐらでもあった。複雑な入り江に囲まれ、少ない平地にみっちりといろいろな設備が押し込められ、秘密基地めいた場所だった。

 皇都に一番近い鎮守府だけに海軍の中枢が集中していたが、手狭になってきたので最近は松坂に一部移転しようという話も出てきた。

 飛行機は二見の飛行場に置いて、洋一たちは鳥羽に降り立つ。搭乗員たちだけでなく、空母の乗組員たちも大半が降りたために鳥羽の人口が千人ぐらい増えたことになる。

 帰省組の洋一は紀勢線に乗る。中隊の皆となんとなく一緒になって賑やかに汽車の旅となった。やはり休暇は楽しいものだ。

 大阪に向かう小暮二飛曹が松坂でまず別れ、舞鶴に家族がいる成瀬一飛曹と熊木二飛曹も津で乗り換えていった。翔覽の本来の所属は舞鶴なので、ここで乗り換えていく人が一番多い。最後まで一緒だった松岡も中京で別れた。なんでも彼の故郷は江戸なんだとか。夜行列車は大変そうだなと思いながら洋一は彼を見送った。

 結局残ったのは洋一と朱音になった。中京駅(地元の人間は中駅「なかえき」と呼ぶ)から出たところで二人は互いの姿を見る。

「何だよ、云いたいことがあるなら云えよ」

「別に。今後入港するたびにこうやって代わり映えのしない顔と一緒に帰るのかと思うとぞっとしないななんて、考えてないから」

「家が隣なんだから、帰り道がまったく同じなのはしょうがないだろ」

 まだ日差しが暑いので、こんな無駄な口論に労力は注ぎたくない。

「おっと」

 視界の隅に軍服が映る。肩の階級章に目を走らせて急いで敬礼する。陸軍の少尉殿だった。

 陸士を出たばかりの新品少尉らしい若々しさで、どこか嬉しそうにこちらに返礼する。ピカピカの長靴を誇らしげに鳴らし、あつらえたらしい高い襟と型のしっかり取れた軍帽を何度も気にしながら円タクに乗込んでいった。大きめの荷物を持っていたから、彼も帰省なのだろう。故郷に錦を飾るというやつだろうか。

 視線を転じて二人は互いの姿を見る。気楽に着られる草色の三種軍装。前線帰りらしいとも云えるが、どこかくたびれてもいた。

「ちょっと待っててね」

「あ、俺も」

 なぜか同時に二人して便所に向かう。戻ってきて相手を見て、互いに口を歪めた。

「何今更かっこつけてるのよ」

「そっちだって」

 二人とも純白の二種軍装に着替えていた。下士官用の五つボタンとはいえ、見栄えはこちらの方がずっと良さそうだった。

「前に帰ったときは正月だったし。あの時はまだ訓練生で水兵服だったのよ」

 誰に対してか言い訳し始める。やいのやいの云いながら二人は路面電車に乗込んだ。

 戦時下と云いながらも街の風景は大きくは変わらない。ただ路面電車の中で視線が集まって来るのは判る。原因は多分朱音だろう。軍人が増えているとは云え、女性下士官はさすがに珍しかった。

 注目されていると思うとつい背筋が伸びてくる。たしかにこれは二種に着替えておいて良かったかもしれない。向こうの女学生二人連れなんかしきりにこちらを見ている。

 大須観音のそばで降りようとしたときに、意を決したのか女学生たちが声を掛けてきた、

「あの、小野先輩ですか!」

「え、ええ」

 鷹揚に振り返ったつもりだろうが、少しばかり跳ね上がったのが洋一には判った。

「あの、私たち都立一女の三級下になります。小野先輩のお噂はかねがね」

 上気した表情で二人はまくし立ててくる。

「本当に、海軍技術士官になられたんですね。すごいです先輩」

「士官ではなく下士官よ」

 そこは大分違うので朱音も訂正する。

「あっ済みません。それでもすごいです。たしか女性採用一期生なんですよね先輩」

 まあ目新しい経歴であるのは事実だった。云われた方も冷静を装っているが、多分あれは舞い上がっている。

「先輩だなんて、そんな大したものではないわ。ふふ、自分のなすべきことをしただけなのだから」

 なるほど、猫をかぶるとこうなるのか。普段の容赦ないがさつな姿とはほど遠い。

「貴女たちも、いくらでも道は切り開けるわ、きっと。ではごきげんよう」

 あっけにとられている洋一を眼で指示すると二人は路面電車から降りる。

 振り返ると女学生二人は窓から顔を出して見送っていた。

「応援してます。お姉様!」

 路面電車が角を回って見えなくなるまで朱音はお上品に手を振っていた。

「ふふ、ふふふふ」

 なにやら地の底から響くような声を漏らし始めた。

「お姉様かぁ。いいわねえ、お姉様」

 気持ち悪い喜びをかみしめているらしい。あまりこの顔は後輩たちには見せない方が良いだろう。

「先行くよ」

 付き合いきれないので洋一は歩き始める。

 大須観音から少し裏手に入った下町。小さな商家などが並び雑多な賑わいを見せている。数年前まで散々駆け回って見知った地なのに、違う服を着て歩くだけで何やら世界が変わったような気がした。

 街の人々の見る目も、悪ガキだった頃とは大違いだ。中身は大して変わっていないのに。

 そんな慣れ親しんだのにどこか初めての雑踏を抜けて、やがて二人は足を止めた。左側に「丹羽履物」と染め抜かれた暖簾が下がる下駄屋。右側に「道風堂」と書かれた看板の掲げられた貸本屋。

「じゃあ、また」 どちらともなく云うと、二人はそれぞれの家に別れた。見慣れたはずの間口を前にして、洋一は柄にもなく緊張してしまう。何しろ正月に顔を出したきりなので九ヶ月ぶりなのだ。

 ええいままよとばかりに洋一は暖簾をくぐった。木の匂いが鼻をくすぐる。

「いらっしゃい」

 威勢の良い声が懐かしかった。

「ただいま、兄ちゃん」

 軍帽を取ると洋一は兄、真一の顔を見上げた。

「洋一じゃないか! 達者にしてたか?」

 帳場から転がるように真一が出てくる。

「電報で来るとは聞いてたが、本当に帰ってくるとはなぁ」

 朱音と二人で折半して電報を打った甲斐があった。一本出せば両家に連絡できるのはありがたかった。

「うん、休暇だから三日ほどだけどね」

 手荷物を置いて洋一は上り框に腰を下ろした。そんな当たり前のことが懐かしい。

「おや、洋一さん。お務めご苦労様です」

 奥から顔を覗かせた貢さんが声を掛けてきた。彼はこの店で雇っている通いの職人だった。

「懲役行ってきたんじゃないよ貢さん」

 彼のつまらない冗談も随分と久しぶりに聞こえる。

「へへ、欧州で大暴れしてきたそうじゃないですか、群がる武助をちぎっては投げちぎっては投げ」

 それじゃヤクザの出入りじゃないか。呆れながら洋一は尋ねた。

「親父は?」

 真一たちは視線を上に向ける。

「二階で下駄作ってる」

「あっしが呼んできますね」

 云うが早いか貢さんは階段を上っていった。

「旦さん、洋一さんが還ってきましたよ」

「うるせぇ、聞こえてらぁ」

 不承不承と云った体で洋一の父、一蔵が降りてきた。

「お、親父。ただいま」

 洋一の声がうわずる。海軍に入るのは随分と反対された。カトンボみてぇにすぐ死ぬ飛行機乗りにするために、高ぇ金払って中学に行かせたわけじゃねぇ。兄真一の取りなしでなんとかなったが、還るたびにギクシャクしてしまう。

「ふん」

 白の第二種軍装を上から下まで眺める。

「脚はまだあるみたいだな。下駄が履けてなによりじゃねぇか」

 憎まれ口を叩いてそっぽを向いてしまう。真一がそっと洋一の耳元で囁いた。

「お前が来てからずっと手が止まってたんだぞ」

 肩をすくめながら洋一は店内を見回す。

「結構繁盛してるみたいじゃないか。安心したよ」

 店の陳列棚は下駄と靴が半々ぐらい。箱がいくつも積まれていて、それぞれに札が貼られている。大半は在庫ではなく注文の品なのだろう。

「時勢柄か下駄はちょっと落ちたけど、運動靴が近所の学校で売れていて大忙しさ」

兄真一が始めた布靴が、今や看板商品の下駄を追い越していた。

「安くて軽いのが売りだから、学生さんに大人気さ。今の時期だと運動会が近いからかき入れ時だよ」

「まったく、足袋屋に修行になんか出すんじゃなかった。変な商売はやらせやがって」

 下駄屋なら足袋のことも判った方が良い、と二年ほど知り合いの足袋屋に丁稚奉公に出されていた。そこで覚えた縫製技術で、ものは試しと布靴を始めたらこれが当たった。

 下駄を生業としてきた親父には少々不満だが、真一は下駄はいずれ先細りしていくと睨んでいた。時代に合わせて変わっていかなければならない。そのための布靴だった。真一に商才があったのか、今や下駄よりも売れるようになっていた。貢さんも布靴作りのための職人だった。

「夢はもう一軒出すことなんだ。その時は貢さんよろしくね」

「へへ、非才ながら粉骨砕身、でさぁ」

 軽口を云うが、暖簾分けをちらつかされているのでその目は力がこもっていた。

「ところでこの前送った靴、どうだった?」

「そうそう」

 洋一は背負っていた鞄の中から一足の靴を取りだした。

「なかなか良いよ。底が薄くて柔らかいからラダーペダルの感覚が掴みやすいし軽くて疲れない。これなら『搭乗員用靴』と謳っても大丈夫だね」

 茶色く染められているので一見革靴に見えるそれは、洋一の言葉を元に真一が作ってみた搭乗員用の靴だった。

「底が薄いから山道歩いたりするには向かないけど、まあ歩くのが商売じゃないからね」

 靴を曲げたり伸ばしたりしながら洋一は喋る。

「そうだな、これから寒くなってきた時用に、もっと暖かいのが欲しいかな」

 今の靴も裏地が別珍になっているが、厳冬期はもっと防寒がしっかりしていないと脚が凍えるだろう。

「空の上って地上よりずっと寒いからね。富士山より高いところを飛ぶんだから、もっとモコモコしてないと」

別珍(べっちん)をもっと厚くするか、フェルトにするか、いっそ毛皮とか」

 帳面に何やら書き込みながら、兄は考え込む。

「そうだ、もう一個注文があるんだけど」

 そう云って洋一は自分の脚を畳に上げた。

「Gをかけると脚に血がたまるんだ。すねの辺りをぎゅっと締め上げると抑えられるんだけど、なんかうまい方法無いかな」

 すねを揉むように洋一は自分の脚を手で締め上げて見せた。

「古手の人はゲートル巻いてるんだけど、地上に降りたらさっさと緩めて楽になりたいんだ。大体ゲートルって野暮ったいし」

「おいおい、陸軍行った兄ちゃんとしては聞き捨てならないな」

 そう云って真一は弟の脚を痛いほど強く揉む。

「編上げ靴にするか、足袋みたいにコハゼにするか」

「手袋しているから簡単に締められるといいな」

「注文の多い弟だまったく」

 そう云いながらも新しいアイデアを考えるのが楽しいらしい。兄のそんな様子を見て、洋一は帰ってきたことを実感した。


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