宝石の涙
誤字がすごい。八百万の神によって救われています。ありがとうございます。
「大変よラリマー!」
ある日の朝、ラリマールの母が淑女と思えない様子で部屋に飛び込んできた。まだ寝ぼけ眼で侍女に髪を整えてもらっているところだったラリマールは、突然のことに頭が働かない。
そんなラリマールなど知ったことかと言わんばかりに母は一通の手紙を押し付けてくる。髪を結ってもらっている最中のラリマールは、ようやく目を開けて手紙を開けた。
「ピジョンブラッド……ルビー様?」
ルビー・ピジョンブラッド。それはラリマール・ブルーペクトライトの婚約者で、手紙の送り主はそのピジョンブラッド家からだった。しかし差出人はルビーではなく、その父親。宛先は父と母とラリマールとなっている。ルビーからの手紙でないことに特に落胆もせず、ラリマールは淡々と手紙を読み続ける。
手紙の内容は「ルビーが今大変なことになってしまったので、今日の午後にでも来てルビーに会ってほしい」とのことだった。さて、何故この手紙が婚約者であるラリマール宛てなのではなくラリマールの父と母も入っているのか、それはきっとその「大変なこと」に含まれるのだろう。ラリマールは他人事のように思った。
侍女に外出お嬢様スタイルに整えられ、父と母に挟まれ、ラリマールは婚約者の屋敷にやってきた。美しく上品な雰囲気のその家は、ラリマールの心をくすぐってくる。しかし、今はそれどころではない。着くや否や応接室に詰め込まれ、泣きそうな表情のピジョンブラッド伯爵夫人に出会った。
「呪い?」
ピジョンブラッド伯爵夫妻と、ブルーペクトライト夫婦と、ラリマールと、ピジョンブラッド家の執事が集められたその部屋は、まだまだ人が入っても問題なさそうなほど広い。だというのに、夫人は小さな声で「大変なこと」について話し始める。外に出したくない情報なんだろうか、とラリマールが首を傾げている間に始まったのが、呪いの話である。
なんでもルビーは家に乗り込んできた魔女に呪いをかけられてしまい、とても人と会える状態ではなくなってしまったらしい。しかし魔女が「条件を満たすことができたら呪いが解ける」というようなことを仄めかし去っていたという。その条件とは「誰かと愛し合う」ことで、それなら婚約者を呼ぼう! となったが、さすがに頻繁にルビーと会ってもらうには父と母にも了承を得るべきだ、という結論に至った――ということを夫人は語った。
「君たちはまだ若く、『愛し合う仲』にはまだ至っていないだろう。しかし、いずれは夫婦となる2人だ。何年かかっても、とは言い難いが……ルビーを支えてやってほしい」
ピジョンブラッド伯爵が頭を下げる。それにぎょっとしたブルーペクトライト家の3人は、慌てて頭をあげるよう懇願した。そしてラリマールの両親は口を揃えて「ラリマールにお任せください」と言った。自分の意思はそこにはなかったが、ラリマールは静かに膝を折った。
執事と共にルビーの部屋に向かうラリマールは、今彼がどうなっているのかを尋ねる。執事曰く呪いをかけられたショックで部屋に引きこもっているとのことだった。彼は呪いで一体どうなってしまったんだろう。ピジョンブラッド伯爵夫妻と両親の手前言えなかったが、果たして自分に呪いに苦しむ婚約者を支えられるだろうか。
ルビーの部屋の扉を、執事が叩く。「ラリマール様がいらっしゃいましたよ」と声もかけるが反応はない。
「ルビー様、お久しぶりです。ラリマールです」
ラリマールも倣って声をかけたがやはり反応はない。数秒待ったが反応がないことを確認した執事は、今度は予告もなく扉を開けた。
「……鍵を勝手に開けるな」
「旦那様の指示です」
逆光で見えないが、ルビーはベッドに腰かけているようだ。呪いと聞いたが、体調が悪いのだろうか。執事について部屋に入ってようやく彼の姿が見えた。が、寝間着を着ているだけで特に変わった様子はない。
いつも通り無表情だ。
「お久しぶりですルビー様。お体の具合はいかがでしょうか」
「俺は体調を崩したわけじゃない」
そしていつも通り無感情な声で返事が返ってきた。
ピジョンブラッド伯爵は「君たちはまだ若く、『愛し合う仲』にはまだ至っていないだろう。しかし、いずれは夫婦となる2人だ」と言ったが、『愛し合う仲』どころか『気軽に話す仲』ですらない。婚約者としての関係はまだ0か、なんならマイナスだ。
執事は突き放すような返事を咎めるようにルビーを一瞥すると、お茶をベッドのサイドテーブルに用意して部屋を去る。残されたラリマールは、「そう言えばルビーの部屋に入ったのは初めてだな」と見当違いなことを考え始める。
ルビーが無表情で座るように促したので、大人しくベッドの横の椅子に腰かける。ふかふかな椅子に気を取られながらも、ラリマールは尋ねた。
「呪いをかけられたと伺いましたが、体調は関係ないのですか?」
「……分からないのか」
改めてラリマールはルビーを観察する。寝間着でベッドに腰かけ、いつも会う時はきちんとした身だしなみなので、寝間着は初めて見る。部屋といい寝間着といい、初めて尽くしだ。髪はいつもと同じく綺麗な青で、瞳は感情を映さない黄色で、バランスのいい顔立ちに、抑揚のない声――――いつも通りである。
「ええと、髪を切りました?」
「あなたの思考は一体どうなっているんだ」
その時、ルビーの右目からぽろりと涙が落ちた。「えっ」と思う間もなく涙は彼の右胸を滑り、膝につく頃には薄い赤色の塊になっていた。雫型のそれはころりと転がり、シーツの上を移動してそのまま床に落ちた。
ラリマールが思わず手に取ると、小指の爪ほどの大きさのそれは、透き通って綺麗だ。まるで。
「宝石みたい……」
硬くて冷たいその石は、太陽の光にかざすとつるつると輝いた。
ルビーは、今度は薄い紫の宝石を1つ瞳から流し、呪いの説明を始める。
「感情が宝石に変わる呪いをかけられたんだ」
ある日魔女が家にやってきて、ルビーに向かって「好きだから結婚しろ」というようなことを叫んだらしい。突然やってきた挙句そんな品のない言動をする魔女に断りを入れると、魔女が怒って呪いをかけてきたそうだ。「これであんたは一生笑ったり怒ったり泣いたりできない、無表情無感情な人間になるのよ! 呪いを解きたかったら、せいぜい誰かと愛し合うことね。尤も、無表情無感情な男とそんな仲になってくれる女なんているかしらね」と笑いながら消えていった。
ルビーは左右の目から濃い赤の雫と、濃い紫の雫をポロポロ零しながらそう話してくれた。
「無表情無感情って……いつもと何が違うんですか?」
「喧嘩を売っているのか」
また濃い赤色の雫が落ちる。抑揚がないため判断しにくいが、どうやら怒っているらしい。けれどラリマールにだって言い分はある。
「だって、私と会う時のルビー様はいつも無表情だし、淡々と話されてますよ」
「……」
今度は薄い赤の宝石が生まれる。初めて見た雫と同じ色だ。濃い赤が怒っているのだとしたら、薄い赤も似たようなニュアンスだろうか。じゃあ濃い紫はなんだろう。
それに、呪いをかけられたと話した時に赤と紫に混じって、濃い緑の雫が1粒だけ落ちて転がっていった。あの緑が表す感情はなんだろう。
ラリマールはルビーの無表情しか見たことがなく、普段の一言二言の会話した程度では感情を垣間見ることもなかった。それが今、彼にとっては忌々しく思っているだろう「呪い」のおかげで、彼がどんな感情なのか知ることができる。
不謹慎ではあるけれど、それが酷くラリマールの好奇心を刺激した。
翌日もラリマールはピジョンブラッド伯爵家を訪れていた。連日会うことなど今までなかったが、なかなか楽しいものだ。ラリマールが来ることを怒る人はいないので、堂々と婚約者の部屋を訪ねた。残念ながら婚約者本人は喜んだ様子は見せなかったが、赤い石を流すこともなかった。今日もまた寝間着。
「これはなんだ」
「硝子の箱です」
「それは見れば分かる」
薄い赤が流れたが、それを嬉しそうに拾い、箱におさめる。そのままルビーのベッド横にあるテーブルにそれを置いた。
「昨日までの宝石はないんでしょうか? ぜひこの箱に入れたいです」
「……誰かが集めていたと思うが、何故そんなことを」
「宝石はルビー様の感情なのでしょう? 大切にしないといけませんから」
「……」
「ルビー様の感情はルビー様だけのものです。失くしたら大変ですよ」
「……」
返事がなくなってしまったので、からりころりと硝子の箱を日光に照らして透けた薄赤を楽しむ。この硝子の中に感情がいっぱいになったら、どれほど美しい宝石箱になるだろう。今はまだ赤と紫と緑しか知らない。他にどんな色があるか分からないが、例え色数が少なくても美しい箱になるだろう。今日は帰る時に執事に宝石をこれに入れるように頼んでおこう。ラリマールは基本、綺麗なものが好きだ。だから実はルビーの顔も好きなのだが、本人どころか誰にも言ったことがない。
ぽとんと、シーツに水色の石が降ってきた。「あら」とルビーの様子を窺った瞬間にもう一粒。やはり表情はないが、どうやら彼から違う感情を引き出せたらしい。嬉しくなって笑みを抑えきれない。水色を拾わず扇を出して口元を覆う。そんなラリマールを見たからか、ルビーの瞳から橙色が落とされる。それにもまた、喜びを感じる。
「いつか――」
「なんだ」
「――いいえ、なんでもありません」
いつかこの宝石の感情を本人の口から聞いてみたい。そんな風に思った。
どうしたら、もっと様々な色の宝石を見られるだろうか。何か好きなものを贈ってみようか、と思ったがルビーの好きなものが何か分からない。それに感情が一種類だと宝石も一色だ。何かないだろうか、感情が揺さぶられるような何かが。
劇でも見に行ってみようか。いや、彼は今引きこもっている。もう2日連続で寝間着だった。なら、本はどうだろうか。
「一緒に本を読むのはおかしいでしょうか?」
「普通はあまりしないな」
呪いのことは隠して、婚約者と仲良くなるための案を兄に相談してみる。どうやらいい策とは言えないらしい。でも別々で読んだら感情が見られない。宝石だけで確認するのはなんだか物足りない。あの美しいイエローダイヤモンドのような瞳から、美しい宝石たちが生まれるのを見たいのだ。
――とは兄に相談できない。男性の意見をと思ったが、ここは母に相談するべきだった。ということで兄との話をとっとと切り上げ、母を探しに行く。「俺の扱い雑じゃないか……」という言葉は聞こえなかったことにした。
母には正直に告げると、母は楽しそうに「それをそのままを本人に伝えなさい」と言った。本音を話すことも婚約者との間で大切なんだそうだ。
寝間着のルビーに直接尋ねてみることにした。
「というわけで、どうすればいいでしょうか?」
「イエローダイヤモンド……」
濃いめの黄色が落ちた。赤みが含まれていない黄色は、ルビーの瞳によく似た色だ。
「まあ、綺麗な黄色。私、この色が一番好きなんです」
「……」
水色。濃い黄色。橙色。次々と落ちる雫を硝子の箱に摘んで入れる。顔を背けられてしまったので雫が落ちるその瞬間は見られなかったが、あとは青が揃えば完璧だ。
「ラリマール」
「なんでしょう」
名前を呼ばれることはとても珍しいことだ。いつもはあなたと呼ばれてばかりだというのに、やはりたくさん顔を合わせると仲良くなれるのだろうか。
「今日は帰れ」
仲良くなったつもりだったが、部屋から追い出されてしまった。ラリマールは溜息を吐いたが、すぐに切り替える。新色が見られたから一歩進んだ。
3日連続で婚約者に会いに行ったが、今日は行かなかった。何故なら今日は義姉の出産予定日だからだ。大きなお腹の義姉は妊娠の影響で色々大変そうだったが、最近は比較的落ち着いていた。兄はいつまで経っても義姉の一挙一動に慌てていたが。
いざ陣痛が始まった時ラリマールも義姉を心配していたが、母も助産婦も口を揃えて「大丈夫」だと言っていたので信じることにした。兄と父は部屋で落ち着きを失くしていたので、ラリマールが座っているよう促す。2人が似たような動きでソワソワするものだから、思わず笑ってしまう。もしかして父は、兄とラリマールが生まれた時もこんな様子だったんだろうか。
それから何時間か経った頃、産声が聞こえた。ラリマールにとって初めて聞く声だったが、それが元気だったことに安心し、転がるように部屋を出て行った兄を追った。
部屋では義姉がベッドで赤ん坊を抱いていた。兄は義姉の肩を抱き、赤ん坊の顔を覗き込んでいる。そして妻と顔を見合わせ、微笑みあった。それは美しい光景だった。義姉は出産の後で顔も髪も乱れているし、兄は泣いている。それなのに幸せそうな笑顔は眩しいほど美しく、ラリマールの言葉を奪った。
「私、納得しました」
「なんの話だ」
翌日、ラリマールは早速ルビーに報告に行った。義姉が出産したことと、赤ん坊を抱いた時の兄夫婦の美しさを。それから自分の興奮を。
ラリマールは硝子の箱を大切に大切に手の上に乗せた。元々美しいそれらが気に入っていたが、今は宝物のように思っている。
「どうして感情が宝石になるのかを、です」
ルビーからの返事はない。ただ、無言で橙色の宝石を流してラリマールを見つめて続きを待っているようだ。
「感情とは宝石のように美しく尊いものなんです。もちろん感情が悲劇を生むこともあるようですが、だからこそ大切にしないといけないものなんです」
だからルビー様もこの箱を大切にしてくださいね。ラリマールはうっとりと硝子の箱を眺める。そんなラリマールを見たルビーは、一つ雫をこぼした。桃色の雫を。
ルビーが呪いにかけられて20日近く経った頃だろうか、彼はようやく寝間着を卒業した。と言っても自宅の庭くらいしか外に出ないが、会いに行っても寝間着を着ていることはなくなり、ピジョンブラッド夫妻が泣いて喜んだ。今日も庭にある長椅子で2人空を眺める。
最近彼の瞳から落ちるのは橙色、薄い黄色、水色、桃色が多い。濃い黄色はたまに見る程度だ。けれど、それらの色の意味を聞いたことはない。聞かないほうがいいような気がしているからだ。ラリマールだって、感情の動きが知られてしまうのは恥ずかしいように感じる。
「……」
「どうかしましたか?」
「なんでもない」
じっと見られていたので首を傾げると、ルビーは首を振った。ポロポロと色とりどりの雫が零れ落ちる。
彼が呪いにかけられて、宝石とはいえ感情を返してもらって、ラリマールは嬉しくも複雑な気持ちだった。呪いが解けてしまったら、と思うと同時に自分が相手で呪いが解けるのか不安になる。条件は「誰かと愛し合う」だ。別にラリマールじゃなくてもかまわない。自分はようやく反応を返してもらえるようになったところだ。前途多難すぎる。もし彼の呪いの件が女性たちに知られてしまったら、みんなこぞって呪いを解こうと奮起するだろう。
愛の感情は、どんな色の宝石になるんだろうか。知りたいけれど知りたくない。どうせまだ、その色の宝石は見られていないだろうから。
「どうしたものですかね……」
「何がだ」
「いえ、こちらの話です」
薄い赤、薄い紫、薄い緑、青が彼の膝に転がった。地面に落ちて無くならないよう、ハンカチに包む。不意にハンカチを持つ手に熱が重なった。触れられたのは初めてで、心が高鳴る。見上げた顔は無表情で、イエローダイヤモンドは濃度の違う緑色を生み出している。
「あなたは、何を考えているのか分からないな」
「そう……でしょうか?」
ラリマールの左手を放さないルビーの右手は熱い。
「私だって、ルビー様が何を考えているのか分かりませんよ」
「……」
「だから知りたい――そう思います」
桃色が落ちていくのを見届けて、すぐに大好きな黄色に視線を戻す。ブルーグレーの髪が迫り、背中に腕が回された。ルビーの温度が伝わってきて、ラリマールは体温が上がったのを感じる。恥ずかしいけれど、嬉しい。このまま呪いが解けてしまえばいいのに。ラリマールは心から願った。
少なくとも、お互いにお互いを好意的に思っていることははっきりした。が、呪いは解かれない。まだ愛にはほど遠いということか。その好意をお互いに口にしていないことには気付かないラリマールは、今日もまた婚約者の家に向かう。
しかし、今日は執事が困った視線をラリマールを送ってくる。なんでも様子がおかしいとか。家族と顔を合わせることを拒んでおり、シーツを被って姿を見せないらしい。どうしてしまったんだろう。ラリマールに心当たりはない。
執事は、声かけだけすると返事を待たずにルビーの部屋にラリマールだけを案内した。
「ルビー様?」
さすがに気まずくなり呼び掛けてみると、シーツが動いた。
「……帰れ」
「何故ですか?」
「いいから、帰るんだ」
何故だか前よりムッとしてしまう。顔くらい見せてもいいのに、と。むんずとシーツを掴んで容赦せずに引っ張ってみる。びくともしない、ということはないが起き上がる気配もシーツが剥がれる気配もない。
「放せ」
「放しません」
「放せと――ゴホッゴホッ」
「ルビー様?!」
シーツが大きく揺れ、ルビーの咳き込む音が止まらない。異常なほどの咳に嗚咽が混じり始め、ラリマールは勢いでシーツを剥がす。咳き込むことに気を取られていたのであっさりシーツは剥がれたが、彼のベッドの中には黒い模様が、否、真っ黒な塊が転がっている。
「う、うぐっ」
「え……?」
更にそこに、ルビーの口から親指の爪ほどはありそうな黒い石が吐き出される。ごろっとした石は口から首元に転がり落ちた。彼は明らかに苦しそうで、ラリマールは声を荒げる。背中をさすりながら叫んだ。「誰か助けて」と。彼女の視界には、空っぽになった硝子の箱は入らない。覗き込んだら吸い込まれてしまいそうなほど真っ黒な宝石だけが脳裏に残った。
*****
それはある日、ルビーの前に現れた。突然ルビーの部屋に姿を現した非常識な女は、『サラスヴァティの涙』と呼ばれる魔女だった。
魔女は会ったこともないような高飛車な態度でルビーにこう言った。「約束を果たしにきた」。約束をした覚えのないルビーは、魔女を頭のおかしな女だと認識する。
「人違いだ」
「人違いなわけないでしょう。サラスヴァティアー・サファイアの名前に聞き覚えがあるでしょう?」
「ない」
「ふざけないで」
サファイアの名に相応しい青くぎらついた瞳を見開き、ルビーを睨みつける。『サラスヴァティの涙』は勝手に「あれは10年前のこと……」と回想に入りだした。ルビーは使用人を呼び、女をつまみ出すよう指示をする。当然魔女も黙っておらず、魔力のような膜で自分を覆い、近づかれないようにしてしまった。ああめんどくさい。
「ルビー・ピジョンブラッド、あんたは10年前私と約束したのよ! 10年経ったら私との結婚を考えてもいいと!」
ルビー・ピジョンブラッドは確かに自分の名前だが、そんな記憶は本当にない。仮にそれが事実だったとしても、ルビーには言い分がある。
「俺にそんな記憶はないが、もしそれが俺だったと仮定して答えてやる。それは結婚を『考える』約束だな。では考えた結果、お前との結婚は無理だ。お前のようなヒステリックで非常識な人間、魔女でなくともお断りだ」
魔女は一瞬の間の後に、炎の如く怒り出した。
「なんですってぇえ!! 約束を信じてた乙女を、ヒステリックで非常識な人間……!?」
「今もこうやって大声で喚いて、淑女の風上にも置けないな」
「あっったまきたわ!! あんたなんか――呪ってやる!」
魔女がぶつぶつと何かを唱え始め、ルビーの周囲に黒い霧が纏わりつき始める。使用人たちが戸惑って霧を吹き飛ばそうと大きな扇で風を送るが、霧は濃くなる一方。しまいには、ルビーの姿は見えなくなってしまった。
ルビーは体に圧し掛かってくる重い霧に耐えられず、片膝をつく。意識が遠ざかろうとする中、魔女の高笑いが頭に響いた。
「これであんたは一生笑ったり怒ったり泣いたりできない、無表情で無感情な人間になるのよ! 呪いを解きたかったら、誰かと愛し合ってみなさいな。尤も、無表情無感情な男とそんな仲になってくれる女なんているかしらねぇ? あーっははははは!!」
それからは、婚約者のラリマールと顔を合わせる日々が続いた。彼女はとてもマイペースで、そんな彼女に苛立ったり、つまらなく感じたり、驚いたり、色々感情が動いた。魔女には怒りや嫌悪の感情しか湧いてこなかった。ただでさえ寄ってくる女性のせいで、「女は煩わしい生き物」だという図式だったのが悪化してしまったルビーにとって、良くも悪くもマイペースなラリマールは簡単にルビーの予想外の球を投げてくる存在だった。それが不快じゃないので好きにさせていたルビーだが、結果いい方向に転がった。
けれど困ったことに、ラリマールに感情をかき乱されていることが苦しく感じるようになった。自分の感情は大まかに彼女に知られてしまっているのに、彼女の考えは一切分からない。彼女の気持ちが知りたい。知りたくない。
それは「こちらの話です」と言われた時から始まった。踏み込むことを拒まれた悲しみと、ラリマールに対する興味も喜びも苛立ちも全部かき混ざって不安になった。その時に生まれた不安が余計にルビーの不安を煽る。
橙色に桃色が混じり、黄色が混じり、赤、青、緑……。混ざって混ざって洗い流すことのできない感情は、黒い塊になってルビーの掌に落ちた。苦しみを伴って生みだされた黒い宝石は、ルビーの感情そのものだ。混ざって苦しくて、でも理解されたくない。見られたくない。
「ようやく人の心の痛みが分かったのね」
気が付くとルビーはどこまでも黒が広がる空間にいた。
自分は確か、ラリマールに黒い宝石を見せたくなくてベッドにこもっていたはず。その後苦しくなって、そこから記憶がない。
後ろを振り向くと、落ち着いた様子の魔女だけが黒い空間に立っている。
「『サラスヴァティの涙』……」
「私の名前はサラスヴァティアー・サファイアよ」
「ここは?」
サラスヴァティアーは肩をすくめ、「あんたの呪いのなかよ」と答えた。彼女は呪いを通してルビーの様子を見ていたらしい。呪いが解けなくて苦しむ様を見てやろうとしていたようだ。ルビーは呪いのことで苦しむというよりも、ラリマールとのことを悩んで苦しんでいた。
「あんたが苦しんで約束を思い出して、私に呪いを解いてと泣きついてくるのを待ってたのに。泣きついてきたところを利用して、骨抜きにしてやろうと思ってたのに」
「骨抜きにされた俺を、こっぴどく振るつもりだったのか?」
サラスヴァティアーは泣きながら「……ご名答」と答えた。落ちた涙を拭わないまま、彼女は鼻をすする。涙は黒い空間に溶けることなく薄青い光になって床に溜まった。不思議な光を放つそれはどことなくサファイアを連想させる。よく見ると、落ちた涙は魔女の瞳と同じ色をしている。
「私じゃない誰かを愛する人間に興味はないわ。もう二度と、会いたくなんかない」
床に広がるサファイアを見てルビーは何となく見覚えがあるような気がしたが、思い出すのはやめた。自分にも彼女にも、もう必要のないことだ。
「呪いは?」
「あんたが心を口に出したら解けるわ」
「解ける条件は誰かと愛し合うことじゃなかったのか?」
「私、『呪いを解きたかったら、せいぜい誰かと愛し合うことね』としか言ってないわ」
「……」
やがて視界が白く光り始める。黒い空間も魔女の姿も白く塗りつぶされていく。涙は止まったみたいだが、魔女の頬についた涙の跡はそのままだ。その姿に、同じ色の瞳を持った幼い少女の影が重なる。
「さようなら、サラスヴァティアー・サファイア」
「さよならルビー・ピジョンブラッド」
*****
「ルビー様!」
ルビーは2日後に目を覚ました。彼の両親と医者と使用人たちに見守られて。タイミングの悪いことに、ラリマールは目を覚ました瞬間には立ち会えなかったが、すぐに知らせが来たので大慌てで彼の屋敷にむかったのだ。
ルビーは起きていたが、もう見慣れてしまった寝間着姿かつ無表情だった。なんだ呪いは解けてないのか、とこっそり息を吐く。
彼のベッド横のテーブルには空っぽの硝子の箱が置いてある。ラリマールの大切な宝石箱は、執事たちも知らない間に中身を失っていた。赤・橙・黄・緑・水色・青・紫・桃の宝石はどこへ行ってしまったんだろう。
ラリマールの心境を知ってか知らずか、ルビーは大きな黒い宝石を取り出した。彼は気を失っていた2日間、この宝石を手放さなかったらしい。親指の爪より一回り程大きい黒い石は、相変わらず何も映さない。
「この黒い宝石がどうかしましたか?」
「本当はこれが口から出たら、呪いが解けるはずだったらしい。でも俺がこんな風にしてしまったから、おかしなことになってしまったようだ」
「……どういうことでしょう?」
この黒い宝石を口から出すと呪いが解ける意味が分からないラリマールは、何の感情もない黄色の宝石を見つめる。
「これは俺の心らしい。でも、知られたくないと思ったせいでこうなった」
「はあ、そうなんですね……?」
「ラリマール」
「は、はい」
改まって名前を呼ばれて驚く。寝間着でベッドに半身横たわっているとはいえ、ルビーの顔も瞳も好きなのだ。緊張してしまう。
「俺は、あなたを愛していたみたいだ」
ラリマールが口を開くよりも早く、ルビーの掌にあった黒い宝石が光った。黒い光は外に出ると赤・橙・黄・緑・水色・青・紫・桃といった色に分解されるように分かれ、再び掌へと戻っていく。
不思議な現象にルビーの掌に視線を落とすと、黒かった宝石は透明に変わっていた。
ラリマールに抱いた全ての感情が混ざる。それを拒絶せずに受け入れると、本来は透明になるようだ。
ダイヤモンドのようなそれに満足し、ルビーはラリマールの反応を待った。
「ルビー様……」
「なんだ?」
「愛って、透明でしたのね」
ぽかんとするラリマールに、ルビーは笑った。
「そうみたいだ」