第5話
シショー――二階に続く階段から駆け降りてきたセキレイがベイクを呼ぼうと口を開くものの、一階では既に手斧を手に戸口で沈黙している扉を前に警戒するベイクが自らの口元に人差し指を添え、彼女に黙るよう指示する。
「……準備しろ」
静かにベイクが言うと、セキレイは疑問するより先に刃渡り三十センチほどの諸刃の短剣を手にした鞘から引き抜き構えた。階段から離れつつ、彼女はベイクのやや後方で事態に備える。
そしてベイクが手にした手斧に彼が得意とする火の魔法が宿り、刃が静かに赤熱を始めた。セキレイも彼からの合図があればそれを見逃さず、聞き逃さぬよう緊張する。
暫しの沈黙。降りる静寂に、ふとセキレイは外がやけに静かであることに気付いた。故に、近付いてくる不規則で雑な足音にも――
来る――セキレイが足音の大きさから接近を察し、胸中で自らに告げた。短剣をベイクと共に睨む扉に突き付けたその刹那、乱暴にも蝶番を破壊し扉そのものが倒れ、黒い外套を纏った人物が室内に転がり込んできた。
「だ、誰だ!」
思いもよらない事態に動揺したセキレイが思わずその者に声を挙げ、短剣の鋭い切っ先を向けたときであった。
「違う、それじゃない」
そんなセキレイにベイクが言う。
彼女の口から困惑する声が零れる中、ベイクは真っ暗闇に包まれた扉の向こう側に向け赤熱した手斧を投てきした。
彼には果たして何が見えていると言うのか、セキレイには疑問であった。彼が手斧を投げた先には闇しかない。
「闇……?」
そう、夜と言っても外の風景が何も見えないと言うわけではない。少し目が慣れさえすれば、そこに星明かりすら無くともうっすらと視認くらいは出来るものである。
だと言うのに、扉の向こう側には闇しかないのだ。ベイクの斧すら闇の中に消えて見えなくなる。だがその音は聞こえた。
くしゃりと言う、何か卵の殻でも潰すような音。
「セキレイ、お前はそれを中に入れて見てろ。出てくるな」
ベイクは言って、倒れる外套の人物を足蹴にすると扉の上から退かし、代わりに戸口の前に移動すると立ち尽くすばかりのセキレイの眼前にその広大な背中を広げる。
普段と違う調子の彼の声は一層低く、それは地鳴りのようだった。
セキレイは息を飲みながらベイクの脇から覗くことの出来る闇に目を向ける。するとそこに、ふらふらと何か白くぶよぶよとした足のようなものが映った。
「臭うぜ、ぷんぷん。勘弁しろよな、ったく」
魚は苦手なんだ――そうベイクは口にしながら自らの前に、闇から現れた存在を睨み付ける。
そこに居たのは、まるで水死体かのようにぶよぶよに水膨れした青白い肌をした魚面の怪異。その粘液でぬらついた頭には先ほどベイクが投てきした手斧が刺さっていた。
人と違い前に無く、凡そ正面は見えないのではと疑いたくなる位置に付いているそれの両目は白濁していて生気は見られない。
斧の直撃で既に絶命しているのか、それでも魚面の怪異の脚はよたよたと覚束無くも歩みを進めている。
ベイクは鼻先を親指で擦りながら、生き死になどどちらでも良いと鼻を鳴らし、そして高く持ち上げた左足で近寄ろうとする怪異の胸板を履いたブーツの硬いソールで勢い良く蹴りつけた。
身体強化等無くとも十分に怪力と呼べるベイクの蹴りである。怪異のだぶだぶとしたみすぼらしい体は風に舞う木の葉のように呆気なく、それが出てきた闇の中へと再び失せる。
そこでベイクは一度振り返ると、呆然としているセキレイに「さっさとしろ」と発破を掛ける。
はっとして我に返ったセキレイは慌ててその人物が纏う外套をひっ掴むと身体強化の魔法も動揺から忘れているのか重そうに引きずりながら「い、今のなんだ!? シショー!?」と問う。
「敵だろ、大方」
「そんな、テキトーな……」
彼女の問い掛けにやはり適当に、と言うよりはぶっきらぼうに答えるベイク。
セキレイは当然不満を露にするが、それを尻目に見て鼻で笑ったベイクは「それより、オレのことはもう“シショー”って呼ばないんじゃなかったのか?」と彼女をからかい、それを最後に戸口の向こう、闇の中へと臆せず踏み込んで行く。
その背に「シショーのバカ!!」との罵声を浴びながら。