第9話
またか――叩かれた左頬を抑えながら、傾いた首を元に戻す最中ベイクが呟く。
痛そうな顔をしながらただ唖然とするアルフレイとは裏腹に、セキレイとソフィの二人は当然とでも言いたげな顔をして呆れている。
レアは依然として笑みをその表情へ浮かべたまま、引き寄せたままのベイクの顔を、彼の青い双眸を見詰めながら告げる。
「ベイク、貴方は負けない。誰にも……何にも、ね。だから、帰ってこれる。でなきゃ、ビンタじゃ済まさないんだから」
「そりゃ……堪らん、な」
「だったら、さっさと済ませてきなさい。三度目の世界救済を。そして帰ってきて――今度こそ」
ベイクの襟口を握り締めたまま、するとレアの顔が三人の方を向く。思わず気をつけをするアルフレイと、キョトンとするセキレイとソフィの三人。
レアは三人にも笑い掛けた後、再びベイクを見ると言う。
「当然、全員でね」
その言葉を受けたベイクも、三人をちらと尻目に見る。そこには相変わらずの三人が居た。そして鼻を鳴らし、口元を微かに歪めて笑った。
そうして三人、特にセキレイを見た時の彼の瞳には感慨のような色が浮かんだことにレアは気付く。それがどういう意味であるのか、彼女は漠然とではあったが分かった気がして目を伏せかける。
「三度も打たれちゃ堪らんからな。――分かったよ。そう言うお前こそ、待っていられるのか?」
「っ……七百年も待たせたヤツのセリフとは思えない。……待つわ。いつまでだって。貴方が帰って来るのなら、ね」
「そっか……じゃ、仕方ねえな」
諦めたようにくしゃりと自らの髪を掻き乱しながらベイクが言うと、伏せかけていた両目を再び持ち上げつつレアもその手を離したのであった。
「手形はちゃんと持った?」
「ああ、海が渡れなきゃ話にならんしな」
ああ――ベイクを見上げながらレアが最後の世話を焼く。するとベイクは苦笑を浮かべながら、ウクバールの統治者より授かった渡航手形をズボンのポケットから取り出して見せる。
それにレアはちゃんとした所にしまうようにと彼に告げると、ならばとベイクは手形をアルフレイへと放り投げた。
慌てて受け止めるアルフレイは頭の上にいくつもの疑問符を浮かべていたが、ベイクは気にもせず、じとりと睨むレアに対し舌を覗かせた。
「仕方ない人ね……」
「七百年も経ちゃあこうもなる」
「まぁ、彼なら貴方よりはしっかりしてるだろうし……良いわ。それじゃあ……」
短いやり取りの後、レアが切り出す。ベイクは小さく頷くとセキレイとアルフレイへ声を掛ける。
二人は既に旅の支度を済ませていた。セキレイは白黒のコートに剣、レディ・ライディーンを背負う。アルフレイもレアに仕立ててもらった特性のローブを身に纏い、今は秘匿されているがレアが愛用していた杖の片方も授けられていた。
店の出入り口へと向かい、先んじてアルフレイが外へと出て行く。続いてセキレイも扉へと手を掛ける中、ちらと振り返る。ベイクはそれに気付いて立ち止まり、訝しげに彼女を見下ろした。
「いいのか、シショー……」
セキレイが何とは言わずに訊ねる。ベイクは小さく鼻を鳴らし、無言で頷く。
するとそれ以上は何も言う事無く、セキレイも店を出た。
そして最後にベイクも――
「――ベイク」
呼び掛けられ、レアへとベイクが振り返る。彼が浮かべたる表情は笑みであった。これ以上、何も言うことはないとでも言うような笑みと眼差し。
それを前にしたレアはしばし押し黙る。募った想いの一欠片も言い出すことが出来なかった。故に、彼女は言う。
「――いってらっしゃい」
応――ベイクが答えた。そして彼は店を後にし、そこにはレアとソフィだけが残される。
静まり返った店内で立ち尽くすレアを気にしつつ、ソフィは扉へと歩み寄りそれを開けて通りへと出た。少し離れた所に三人の背中が見えて、彼女はしばらくそれを見ていたが、彼らは決して振り返ることはなかった。
ソフィは思う。きっと全て終わるまで、帰路につくその時まで彼が振り返ることはないのであろうと。
いまだ彼女の胸中にはベイクへの複雑な想いが燻っている。仲間を切り捨てたベイクへの恨み辛みや怒りが。しかしそれでも、あの驚異に対し、彼でなければどうしようもないという事実。どうかこれ以上の悲劇を止めてほしいと願う、彼への期待。
一月の間にも色々とあって、今はそれで勘弁してやる。ソフィはそう思いを込めて三人にではなくベイクに向けてべっと舌を見せた。
そして舌を引っ込めた彼女の表情は存外に、晴れやかなものなのであった。




