それが自分の本心なのか?
「禁止されていない」は「何をしても
いい」ではない。あと自分を騙すのは
間違いだ。「何がどうなろうと変化の
中で存在し続ける本質は永久不変」と
唱えると、無法無道の許可が降りたと
解釈されたらしい。確かに個人が何を
どうしたところで世界の本質には何の
影響も無い。つまり禁止されてない。
ココ大事ダヨ。
いわば開けっ放しで番犬もいない扉だ。
ツマリ逆らうネウチも無い
で言葉遊びというより表現トリック、
「何をしてもいいのでしょう?」と、
まるで許可、推奨されているみたいな
質問を投げてくる。これがアレだな、
ニーさんが言う「深淵に覗かれる」。
まぜっかえしに巻き込まれ消耗して、
やがてダメになってしまう。だからサ、
世界からの禁止は何もないからこそ、
色んな価値観に惑わされ、人の本質も
忘れてしまい、永遠の真実を祈っても
万物は変化してしまう。それが辛い、
またはつまらないワケだ。そこで先ず
自身の正体を把握、「個人格=我」と
「本来的存在=人」のハイブリッドが
全人類の共通解釈だ。
「我と人」には前後優劣は無い。
同位である。
このような存在が心安らかに過ごせる
「新しいモノの考えかた」を模作して
我=自分の価値だけに囚われず、人の
本質を基幹に据え「自身を含めて人を
速損なうな、人の幸せを第一にせよ」
という根本理念を定義、されど万物は
変化する、大切にしてもムダ?という
疑問、不安、いっそ恐怖に「何もかも
全て変わってしまうと思うから辛い。
だが変わりながら存在し続ける本質は
永久不変だから変わらない事象も在る」
と応えた。変わる属性の「我、時間、
空間、世間」と変わらない属性の「人、
時、空、世界」は互いを含む存在だ。
そういうモノの考え方で既存の価値観、
世界観、人生観を見直すだけのこと。
キーワードは分我羅人。相互の関連性を
考察すれば当たり前の本心が現れる。
「自分は自分であると同時に人だから、
自分個人だけの世界だけでなく、人が
安心できる世の中のを作ることにも心を
向けよう。仮に自分の価値を破壊された
としても人の心がある。それは永久不滅
無限不変の世界の本質、絶対の“在る”、
だから迷わない、忘れない“自身を含め
人を大切にする”ことを」