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独短編

本物と偽者

作者:


001


「花瓶の鑑定、ね」


 空風にカタガタと揺れる窓を背に、一人の女性が呟いた。

 胸部まで伸びる長い髪は簡素なヘアゴムでまとめられている。艶のある真っ赤なトレンチコートからのぞく黒のニット。ベージュのスラックス。その長く細い足を組んだまま、女性は手渡された資料に眼を通し終える。


「なんでまた、こんな依頼を?」


 ぱた。低くうなり声を上げるストーブに合いの手をいれるように、資料が長机の天板に落ちる。


「ここは探偵事務所だぜ。鑑定事務所じゃない。わかってるだろ? 旦智(あきとも)


 その声は、怒気を孕んでいるというよりもどこか、困惑しているようにさえ聞こえた。それもそのはずで、女性はこの職に身を投じて以来、未だそんな依頼を受け持ったことがなかった。

 対して、旦智は――女性の目の前に座る真っ黒なハットは、肌を撫でる冷たさから身を守るように肩を震わせた。


「わかっています、水下(みなしも)さん。けれど、僕達みたいな探偵が生きていくには、このご時世、えり好んでもいられないんですよ。その――」


 旦智は水下の手を見、すぐに目を逸らす。少しでも、その気に触れまいとするような仕草だった。


「――『度胸』は、求められちゃいない」


 沈黙。

 水下は、長く細いため息をつく。


「引き受けよう」


 酷く短い肯定の言葉の後、水下はピタと息を止めた。鼓動、鼓動、鼓動。




「これ以上なく大胆に」


 そう言って彼女は、不敵に笑う。

 『度胸探偵』などという奇天烈な名前が踊る事務所の看板が、ガタリと揺れた。


002


 二月三日の金曜日、依頼人の小林(こばやし)優郎(すぐろう)と水下達とは、彼の有する邸宅の一室に、紅茶を挟んで向かい合っていた。優郎は黒髪の混じる白髪をオールバックで固めている。薄い青のシャツに、暗い色のベスト。


「今回はご依頼、ありがとうございます」


 優郎から向かって右側、『剛勇(ごうゆう) 旦智(あきとも)』という名詞を差し出した黒いハットは、慇懃に背筋を伸ばした。精一杯背伸びをしても百六十センチに満たないと思われるその矮躯は、幼子のようにさえ見え、剛勇という名字にも、その礼儀正しい態度にも似つかわしくない。優郎の目の前に座る、『水下(みなしも) 無月(なつき)』をヒラヒラと革手袋で弄んでいるトレンチコートとはまさに対照的だった。


「んで? どこにあるんだよ、その花瓶ってやつは」


 ピッと名刺を優郎の側に滑らせて、水下は腕を頭の後ろで組んだ。


「ああ、申し訳ない。すぐに用意させましょう」


 優郎が使用人を呼び、少し話し込んでいる合間に、旦智は水下の袖口をフイフイと引く。


「なんだよ」

「なんだよじゃないですよ。相手は大切な依頼人なんですからね。あんな態度……。手袋だって外してください。それに、こぼしたりしないでくださいよ、その紅茶とか」

「手袋してちゃあまずいのかよ。あのおっさんだってつけてるだろうが。お前だって帽子被りっぱなしだし」

「……」


 帽子を脱ぐために緩んだ旦智の手を振りほどくと、水下は組んでいた足をほどいて、さらに噛みつくように両手の革手袋を外す。それぞれをコートのポケットに突っ込んで、これでいいかよとでも言いたげに両手をヒラヒラと舞わせた。その乱暴な態度とは裏腹に、露わになった手は陶器のように透き通っている。水下はその手をして「女みたいで嫌いなんだ」と常々言っていた。

 彫刻のようなその手が紅茶のカップを掴むのと、台車を押した使用人が扉から応接間に入ってくるのとはほとんど同時だった。台車の上には灰色に光るアタッシュケースがガタガタと震えている。腰を上げた優郎がそちらへ向けて足早に向かっていく。


「来ましたよ」

「見りゃわかるよ」


 クイと傾けたティーカップに「あっつ」、舌打ちをしながら水下は優郎が台車を押して来るのを待って、

 その手にカップの中身をぶちまけた。


「んうあッ!?」


 なんとも付かない声を上げて、優郎は手をバッと振り回す。旦智の額に、紅茶の雫が跳ねる。そのまま、ツツツと垂れていく。


「もう!」

「ああ、悪い」


 水下がヒョイと足をソファの上に上げると、その机とソファとの合間を縫うように旦智が飛び出した。まるでこうなることがわかっていたかのような素振り。


「申し訳ありません!」


 丁寧にアイロンがけされたハンカチを取り出すと、旦智は優郎の右手を掴んだ。そしてそのまま、右手の革手袋も流れるように取り払ってしまう。大の大人ならばまだしも旦智のような見た目の者がする分には優郎も拒否しづらいようで、居心地悪そうにしながらも、されるがままになっている。一拍遅れて、使用人が「大丈夫ですか」と小さめのバスタオルのようなものを持って足早に向かってくる。もう片方の手には氷嚢と思しき包みを携えている。

 優郎は我に返ったかのように「心配しすぎだ。少し手にかかっただけなんだ。下がっていなさい」と言うと、タオルを受け取って、また水下、旦智の向かいのソファに座り直した。穏やかに手を振り払われた旦智は、気まずそうに湿ったハンカチをたたみ直して水下の座るソファの後ろから再び元座っていた場所へと浅く腰掛ける。

 使用人はといえば、手際よく飛び散った紅茶を拭き取ると、扉の向こうへ消えていった。


「あの……申し訳「いいんですよ。そういう触れ込みでしょう。『度胸探偵』さん」

「あ、え……あの」

「わかってるじゃんか」


 旦智が答えづらそうにしているところに水下が助け船を……泥船を出す。


「黙っててください、あなたは」

「へーい」


 拗ねたように口をとがらせる。


「……では。あー……花瓶の鑑定、とのお話でしたが」


 喉がつっかえたようになりながらも、旦智は話を切り出した。


「ええ。電話させていただいたときにお話ししたとおりです。曾祖父から受け継いだものなのですが……」


 言いながら優郎は膝の上に置いたアタッシュケースを丁寧に開け、中に入っていた二つの花瓶を机の上に取り出した。大きさは二十センチメートルほど。どちらの花瓶にも、可憐に咲き誇る()(おん)(いろ)の花が描かれていた。水下たちから向かって右の花瓶には握りこぶしほどの、左の花瓶には指先ほどの大きさの花模様が精巧に施されている。


「このどっちかが偽物だって?」

「話は最後まで聞くものですよ」


 すでに飽きてしまったかのように両手を頭の後ろで組んでしまった水下を右肘で小突きながら、旦智は二つの花瓶に視線を走らせる。そんな水下の対応に、偶然だったのかそれとも狙っていたのか、優郎は「ああ、失礼」と一言呟いて、片側の花瓶をクルクルと百八十度回してみせる。


「ああ」


 その変わりように声をあげたのは、しかし旦智ではなく、水下だった。

 その裏から現れた、握りこぶしほどの花を見て。


「同じ、花瓶」


003


 『本物と偽物』。

 江戸時代中期に活躍した陶芸家、平塚(ひらつか)偽物(ぎぶつ)の作品。

 幼ない頃から父、平塚(ひらつか)贋作(がんさく)の所有する掛け軸や浮世絵が偽物か否かのいざこざに巻き込まれ続けてきた彼が、憎き父親(後に、父贋作は本物の父親ではなかったことを知る)につけられた最も忌々しい『正之介』という名前を捨てて、始めて世に放った作品である。

 長きにわたって父の旧友であった陶芸家(後に、彼は贋作作り専門の陶芸家であったことを知った)に師事していたからか、その腕前は折り紙付きであり、処女作とはいえど、当該作品からもそれが見て取れる。

 外観は乳白色の地に鮮やかなカキツバタが三輪という非常にシンプルなものであるが、特筆するべき特性は、他にある。

 「本物も、偽物も、みな美しい。どちらが正しいなどということはない」と常々口にしていたという平塚。その『偽物を軽んじるべきではない』という思いを一心に背負ったように並び立つ、全く同じ作りの花瓶たちは、見るものに等しく衝撃を与えることだろう。

 本物と同じように咲き誇るカキツバタの持つ花言葉は、『幸福が来る』。偽物として生まれ、偽物に苦しんだ彼の、それでもここに幸せはあるはずなのだという心の声を代弁したかのような――


 『陶器から見る日本の歴史』(静寂沢 2003)より抜粋


004


「なるほど……同じように作られた、『本物』と、『偽物』」

「だとすればそれは両方とも本物なんじゃねえのか? 『本物と偽物』の、本物」


 手をほどいた水下は、しかし先程とは違っていらだたしげな表情を見せる。結局は何が言いたいんだとでも言いたげな表情に、優郎は革手袋をしたままの左手で応じた。


「いえ、ちょっと待ってください。私もそれくらいはわかっています。ですから、このうちのどちらかが……『本物』と『偽物』の――いえ、その区別すらままならなかったでしょうが、そのどちらかが、誰か別人の作った花瓶とすり替えられてしまった、というわけなんですよ。つまるところ」


 チラと花瓶の方へ視線を移し、優郎は切なげに空笑いを作る。


「ああ……なんて、曾祖父や平塚先生になんて申し訳ないことを……」

「あまりご自分を責めないでください」


 ついには頭を抱え込んでしまった依頼者を旦智はそう宥めるが、他にかける言葉も見つからないのか、そうしたきり場は静まりかえってしまう。

 水下は空になっていた自分のティーカップを傾け、また傾け、最後の一滴まですすりとるようにしてから、ソーサーの上へと載せる。優郎はそのカチリという音で眼を覚ましたかのように顔を上げ「奥の部屋に、いつもこの花瓶は置いてあるんです」と立ち上がる。フワリと舞う左手は、『こちらへどうぞ』というふうに二人を促していた。呼びつけた使用人に、「お前はここで花瓶を見ていなさい」と言うことも忘れない。


「じゃあ僕も……」

「旦智、お前は待ってろ」

「ああ……はい」


 上げかけた腰を強ばらせ、ピクと背筋を張って、旦智は答える。


「あ、と、いいのですか。一緒にお話をと思っておりましたが……」

「まだ見習いですから。いずれ、いざ独り立ちという段になってなにもできないというのでは目も当てられません。あとで彼女からお話は聞いておきますよ」

「そういうこった。案内してくれ」


 いつの間にかはめていた革手袋で優郎の腰をボと押しながら水下は優郎と共に奥の部屋へと消えていく。


005


 案内された『奥の部屋』は、先程の応接間から二、三の部屋を隔てた先にある彼の書斎だった。中央に大きく場所を取る木製の机には、このご時世には珍しく、インクに、羽ペン。その奥には裏庭へと続く大きな窓。荘厳な刺繍の施されたカーテンがほとんど閉まっているからか、室内の空気は薄暗く重苦しい。水下は特に理由もなくケホケホと咳き込んだ。視線を右に移せば、焦げ茶色の本棚にギッシリと詰められた革表紙の本。古びてしまっていて題名を見て取ることは難しい。


「ここですよ、ここ」


 左方へと歩いて行った優郎は、ふるめかしいライティングビューロの天板を軽く叩く。


「普段はここに、ああ勿論倒れないように台座も使っていましたが、置いてあったんですよ。二つともね」


 宙を花瓶の形になぞるようにして熱弁する優郎を背に、水下は部屋の中を見回す。


「すり替えってのは……何を根拠に言ってるんだ?」


 照明には、四角い磨りガラスのカバーの掛けられた大きな電球が二つ。部屋の入り口の真上と、部屋中央の机の上。


「ああ、それがですね、二週間前の……あれは木曜日ですか、突然でしたから驚きましたよ。夜中の一時頃でしたでしょうか。私は二階の寝室で眠っていたのですが――


006


 山本と名乗った使用人は、旦智のティーカップにおかわりを注いで、持参した折りたたみ式の椅子に腰を下ろしている。「別に気を遣われなくても」という旦智の呼びかけにも、「いえ」と答えるばかりだ。数度の答酬の後、旦智は折れたように「じゃあいただきます」と紅茶を口に含んだ。

 二人の目の前には、『本物と偽物』。優郎が言うには、どちらかが偽物とのことだったが、現状、旦智には全く区別がついていなかった。


「見ても良いですか? これ」


 一丁前に上着のポケットの中から白い手袋を取り出して、旦智は山本に尋ねる。


「ええ。ですが、どちらが本物ともわかりません。どうか慎重にお願いいたします」

「ええ。わかっていますよ」


 向かって右側の花瓶に触れると、そのまま花瓶の縁に手をかけるようにして、それを持ち上げる。途端、「うわっ」と声を上げた旦智は、続けて山本の方を向くと「すっごく軽いんですね、これ」と呟いた。

 内側から触るとその原因は瞭然で、見た目から想像されるよりもその肉厚が薄く作られているからであった。


「厚みのある作品の方が壊れやすい側面も孕んでいるんだと旦那さまは仰っていました」


 ですから、山本は続ける。


「平塚先生も、ご自分の思いが末永く後世に伝わっていくことを望まれたんじゃないでしょうか」

「なるほど……」


 一通り検分を終えて、旦智はその隣の花瓶を手にする。


「うわっ……重さまで本当に一緒なんですね」


 慌てて取り落としそうにでもなったのか、花瓶の首の部分をしっかりと持ち直しながら、呟きが漏れる。おそるおそるさっきと同様に検分を始める。数分の後、静かなため息と共に花瓶を置いた旦智は「はは」と失笑する。


「これ言うとあとで怒られるかもなんですけど……これを、本物と偽物とで見分けるっていうのは……」

「難しそう、ですか?」

「ええ、かなり」


 言うと旦智はスックと立ち上がる。その手元をのぞき込むために前屈みになっていた山本は驚いたように肩を竦めた。咄嗟に漏れ出た声に反応するように旦智は振り返る。


「ああ、すみません」

「あ、いえ。……どうされました?」

「ちょっとお手洗いをお借りしようと思って。大丈夫ですか?」

「はい。でしたらご案内させていただきますよ」


 続いて立ち上がろうとした山本を旦智は「いえいえ」と手で制する。


「大丈夫ですよ。先程優郎さんに教えていただきましたし。それに、あなたはさっきから何かと忙しそうだ。今くらいはゆっくり休んでいてください」


 白い手袋を外すと、旦智はソファの端に掛けてあった黒いハットを深々と被り直す。


「それでは、ご機嫌よう」


 そんな不似合いな台詞に、山本は首を傾げた。


008


 事件の話も佳境、黒衣に身を包んだ犯人との大立ち回りを披露する優郎の部屋に、困ったような顔をして旦智が足を踏み入れる。


「そこでですね! ……ああ、どうされました」


 何かを振りかぶったような格好のままで優郎は気の抜けたような声を上げる。目を細めてつまらなそうに芝居を見ていた水下はやっときてくれたかとでも言いたげなため息をついて、「待ってろと言ったはずだが」と形ばかりを口にし、髪をかき上げた。


「いえ、それがですね……、お手洗いをお借りしたく……その、迷ってしまいまして」

「ああ、そういうことでしたら。廊下を右手に進んで三つ目の扉がそうですよ。取っ手に花があしらえてありますから、わかるかと思いますが。案内しましょうか」

「ああ、いえ、大丈夫です。ご迷惑おかけしました」


 深々とお辞儀をした旦智は優郎の背後、水下に目を向けた後、口に手を当てて声を上げた。


「水下さん、どっちが偽物かわかったとしても、絶対割ったりしちゃ駄目ですからね。両方共ですよ。あと、僕はさっきの部屋にいますから、先に帰ったりしないでくださいよ。また帰れなくなるのはごめんです」


 部屋に入ったときに目にした優郎の姿に感化されたのか、どこか芝居がかったように振る舞う旦智にヒラヒラと手を振りながら、「わかったよ。ほら、戻ってろ」と眉の端をキュイと上げる水下。

 その反応に満足したのか、旦智は「失礼しました」と扉を閉めた。

 優郎と二人、再び部屋に残された水下は憎々しげな表情を隠そうともせずに、「ほら、続けろよ」と吐き捨てる。そんな水下の反応を苦にもせず、優郎は再び何かを振りかぶったような姿勢に戻る。


「お前! 何やつだあ! 言ってやりましたよ。とはいえ内心は怖くて怖くてしかたがありませんでした。ですがここは私の家、私の砦。そして平塚先生や数多くの巨匠の遺産が眠る宝物庫なのです。ですから私は――


 ――私は昔柔道部でして。油断した犯人の胸ぐらをグイと掴みましたよ。ええ、そりゃあもう、犯人はさぞ驚いたことでしょう。まさか盗みに入った屋敷で返り討ちに遭いそうになるなんて、想像だにしていなかったでしょうから」


 旦智の姿が消えてから二十分ほど経った頃、四度目の欠伸をかみ殺すと、水下は手でうるさげに優郎を制した。


「……どうかされましたか。ここからがいいところなのですが」

「もういい」

「もういい、と仰いますと?」

「犯人がわかった。そんで、偽物の花瓶もわかった」


 一拍おいて驚嘆の声をあげた優郎から目を背けるように部屋の扉に手をかける。応接室へ向けて廊下を足早に進む水下の後を、ドタバタと慌てたように優郎が追いかけてきた。


「ありがとうございます! それで、一体何でわかったのですか」

「……」

「やはりあの窓に仕掛けが」

「なかっただろ」

「ではあの机の裏のひっかき傷が」

「前からあったんだろ?」

「裏庭で見つかった新たなアタッシュケースが関係」

「してない」

「じゃあ一体何が!」

「落ち着けって」


 水下は速度を緩めることなく、元いた応接室の扉を開ける。

 そこに旦智の姿はない。が、気にした風もなく、水下は使用人の山本へ向けて紅茶のおかわりを頼んだ。

 ソファに腰を下ろしても、優郎は興奮冷めやらぬといった風で、目の前の水下と机の上の花瓶とを見比べて大げさに頭を捻っている。


「一体どっちが……」


 片方の花瓶を手に取ってクルクルと回し、またもう片方もクルクル。その目には滑稽に映ったのだろう、水下は表情も変えずに「は」と笑う。

 少しして、山本が新しいティーカップを運んでくる。一杯目に出されたものよりも幾分か冷まされているらしく、立つ湯気は薄い。


「あの、お連れの方がお手洗いに行ったきり戻ってこられないのですが……」


 その言葉を無視し、水下は机に置かれる前に山本の手元のソーサーからティーカップを取り、一息に飲み干した。


「そろそろ、解決編といくか」


 芝居がかった風な口調で、水下はガチリとティーカップを山本の手元へ戻す。なめらかにソファから腰を浮かせ、優郎がしげしげと眺めていた花瓶をひったくる。机の上に置いてあったものも同様に。左右のそれぞれの手で、まるで重さを測るかのようにそれらを交互にユラユラと揺らし、そして、そのまま。

 水下はその手に持っていた花瓶を両方とも床へと叩きつけた。


009


「犯人はてめえだろうが。ばあああああか」


010


「お疲れ様です」


 優郎の家の目の前に停められていた車のドアが開く音に、後部座席で目を閉じていた旦智はそう応える。鍵の差し込まれる音に続くように、車体がブルンと震える。無機質な温風が旦智の顔へと吹き付けた。


「どうしました。ご機嫌斜めですか」

「三文芝居に付き合わされてた」

「みたいですね」


 ガチリ。ガコガコ。手際よくギアを操作して、すぐに車は走り出す。小林邸を横目に名残惜しそうな表情をして、しかし旦智は「ふふふ」と笑って見みせた。


「どうでしたか、彼は」

「紋切り型だったよ。な、なにをするんですか」


 さっきまでの仏頂面が嘘のように、水下はおどけて優郎の真似をする。また、肩を揺らしてケタケタと笑う。


「メイドもわかりやすく悲鳴なんてあげちまってよ。きあああ。きあああ」

「可哀想ですよ、馬鹿にしたら。お紅茶、美味しかったでしょう」

「ま、それなりにな」


 信号。曇った窓硝子に、赤がボンヤリと浮かぶ。何の気なしに旦智がそれを眺めていると、水下は振り返る。


「それにしても、本当に両方とも偽物だったのかよ、あの花瓶は」


 旦智はちゃんと前を見てくださいとたしなめつつ、にこりと笑って、「ええ」と呟く。


「実際に手に取って、見て、わかったんですよ。……あの花瓶は少なくともひいおじいさんの代から受け継がれたものだって、言っていましたよね」

「ああ」

「だとすれば、部外者がなぜ『本物と偽物』の偽物など作ることが出来るっていうんですか。あんな精巧に。あんな緻密に」

「……なるほど。真似をするにしても、手本がない」

「あのうちのどちらか一方だけが偽物だなんて、そっちの方が、屋敷に突如現れた不審者との大立ち回りよりもよっぽど滑稽で、お話じみていると思いませんか」

「聞いてたのかよ」

「書斎に入る前に少しだけ。一応確かめたいこともありましたし。いやあそれにしても、ひどかったですね」

「ああ。台本をただ朗読してるって感じだったよ」

「最後は一人で楽しくなっちゃってましたし」


 旦智は曇った窓硝子に一つ、二つ、花瓶を描いた。『本物と偽物』――その偽物たち。


「確かめたかったことってのは?」


 カツカツとハンドルに爪を当てながら、水下は問う。


「本当に彼が犯人なのかを、ですよ。小指の火傷だけじゃあ、流石に証拠としては薄いでしょう」

「小指?」

「……見てなかったんですか。水下さんが盛大にこぼした紅茶のことですよ」

「あれはお前がこぼせって言ったんだろう」

「いいえ? 僕は『こぼしたりしないでくださいよ』と言いました」


 舌打ちの漏れた水下がバッと後ろを振り向くと貼り付けたような笑顔の旦智とばっちり目が合う。数秒間、互いが互いを見つめ合う。こんなとき、折れるのはいつも水下の方だった。再び舌打ちをしながら、前へと向き直る。


「あのとき剥ぎ取った手袋の中……彼の小指には、目立たないものの小さな火傷痕がありました」


 自分の小指をいじりながら、旦智は続ける。


「ここの火傷は陶芸家がよくやるんですよね。習い始めはもちろんのこと、何十年と続けた老練な方でも……彼は後者だったようですが」

「陶芸家……なるほど。自分で作った花瓶を自分ですり替えたってわけか。両方とも」

「二階の奥へ行くと窯が備え付けられた部屋がありましたよ。水下さんにも見せたかったですね。床一面に置かれた、『本物と偽物』の偽物たちを」

「……偽物の、そのまた失敗作、ね」

「何十何百と同じものを求めて作り続けていたんでしょうね。全く同じ二つの花瓶を。だからこそ、そんな偽物は薄くしないといけなかった」

「というと?」

「山本さん――ほら、使用人さんがいらしたでしょう。彼女がこぼしていたんですよ」

「紅茶を?」

「……『厚みのある作品の方が壊れやすい側面も孕んでいるんだと旦那さまは仰っていました』」

「はん」

「焼き物をやったことがない人からすれば、肉厚のある作品のほうが丈夫で、壊れにくいんじゃないかと思うのが普通でしょう」

「そうだな。……なんだよ、薄い方がああいうのは長持ちするものなのか?」

「いえ、一概にそうとも言い切れません。厚い作品が壊れやすいというのは、形に無理があったり、焼き上げる前の段階で中に空気が入ってしまい易くなるから……それ以外の点は、一つ一つの作品を丁寧に作っていれば、大して問題にもならないことです。己が信念を象った平坂偽物が、『本物と偽物』にその程度の手間も惜しむとは、到底思えませんね。『偽物も軽んじるべきではない』、ですよ」

「となれば……小林優郎は、素人でも、一つ一つを丁寧に作り上げる陶芸家でもないってことがわかる、と」

「あれほどまでに似た二つの作品を腰を据えて作るほどの腕前はなかったのかもしれませんね。だから、彼は見方を変えた」

「数撃ちゃ当たる。めくら滅法に花瓶を作りまくったってわけか。その中のどれか一組でも似ていれば目的達成、か」

「ええ」


 首肯し、旦智は窓硝子から指を離す。そこにはいつの間にか、十数個の花瓶が描かれている。どれもほとんど同じ形、どれもほとんど同じ色。そして、どれもが正しく、偽物。


「あとですね」

「まだなんかあるのか」

「『本物と偽物』に描かれている花、なんだったか覚えていますか?」

「ええっと、たしか……カキツバタ」

「その通りです。でも、あの花瓶に描かれていたのは、菖蒲(あやめ)でしたよ」

「……」


 言葉に詰まったように水下は数秒間肩を震わせていたが、それでもしまいには我慢できずに吹き出してしまう。


「くっ、はははは、なんだよそりゃ」

「あははは」


 ひとしきり笑った後、ひっひとふるえが止まるのを待ってから、「それにしても」と水下は切り出した。


「小林優郎は、なんでまた、こんなことをしたんだろうな」

「え、と……それは」

「だって、そうだろう? そんな苦労してやっと『本物と偽物』の偽物を作り上げたのに、旦智に壊されて……ああ、もしかすると、『本物と偽物』の本物として誰かに売りつけるつもりだったのかもな。阿漕な奴だぜ」

「違う」


 咄嗟に、旦智は否定する。気分を悪くしたように、人差し指で眉間のあたりをコツコツと突いた。


「だって、もしそうだとしても、それは僕たちを雇った理由にはならない」

「……まあ、たしかにな」


 先程までとは打って変わって、車内には沈黙が流れる。聞こえるのは、低く震えるエンジンの音と、ブオオと唸る空調。そして。

 ピルルルルル。


「鳴ってますよ」

「あたしのじゃねえよ。というか、運転手に電話を取らせようとするなよ」


 旦智は苛立たしげにポケットから携帯電話を取り出す。灰色の人型に、見たことのない電話番号が光っている。不審げな表情をしつつ、その緑色を擦ると、サアアという雑音に混じって、向こう側の声が聞こえてくる。

 小林優郎。

 『本物と偽物』。

 そして、その偽物。その理由。

 カキツバタ。

 菖蒲――花言葉は、『メッセージ』。


「届いたかな。『度胸探偵』」

「……なるほど」


 旦智(ほんもの)を、見破るため。


「他でもないあなたに依頼したいことがあるんだ。引き受けてくれるかな」


 屋敷で聞いたものとは印象の違う優郎の声が、旦智の耳へ届く。


「勿論。引き受けますよ」




「これ以上なく大胆に」

 そう言って旦智(かのじょ)は、不敵に笑った。





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