#090:泡沫な(あるいは、夢じゃない)
「よかったら、こっちのカウンターで少しお話ししません? 私荷物移動してきちゃいました」
用を足して戻ってきた僕を待っていたのは、そういった甘いお誘いだったわけで。断る理由……無いよな。僕は示されたカウンターの左端に興奮を隠しながら腰を下ろす。
「何飲まれます?」
猫田ちゃんは僕の右隣の席に座ると、メニューを差し出してくれた。気配り感がすごいね。女子力高しと見た。僕は生をお願いする。
「でも猫田さんも連れの人いたんじゃないですか? いいんですか勝手に抜けてきちゃって」
一応気遣う体でそう言ってみるが、そうですね、と戻られても困るわけで。戻るな〜戻るな〜と念を込めながら、僕は猫田ちゃんの返事を待つ。
「……もうお開きになったし、全然大丈夫です」
ちょっと間があったような気がするけど大丈夫かな。いや大丈夫、大丈夫。それよりも隣合っている肩というか二の腕の辺りが心無しか何回も当たっているような……
「……じゃあ改めまして。予選優勝おめでとうございますっ」
運ばれてきた生中と、猫田ちゃんは何かのサワーだろうか、ジョッキ同士を軽く触れ合わせる乾杯をした。さっきの地獄のような乾杯とはそれこそ天と地だ。
「……」
ビールを一口含んで横目で猫田ちゃんの様子を伺う。これはまた夢ではないか。その可能性は否定出来ない。
「……」
すると体をこちらに向けて僕の方を見つめていた猫田ちゃんと目と目が合ってしまう。無言で軽く微笑んでくるけど、うん、やっぱりこれ夢だろ。もうそのパターンは食わないぞ。
「いてっ」
焼き鳥を串から外す器具を何気なく手に取り、カウンターの下で自分のふとももにぶっ刺してみたところ鋭い痛みが脳天を突いた。あれ、これ夢じゃない。ということは。
「脚、痛いんですか。かなり漕ぎましたしね」
え! 猫田ちゃんはそう心配そうに言うと、僕のふともも辺りをその手でさすってきた。オウフ。ジーンズ越しにもその手のひらの柔らかさ、熱さが伝わってくるわけで。
「……」
僕の慌てる様子を楽しむかのように、猫田ちゃんは無言でじっと僕の目を覗き込んでくる。切れ長の目。鼻筋は通っていて、顎の線はシャープ。全体的にクールさを感じさせるのに、暖かみもそれ以上に伝わってくる。僕もいつの間にかずっとその目を見つめ返していた。
「……ムロトさん」
猫田ちゃんは僕の太ももに手を置いたまま、ずいとこちらに身を寄せてくる。肩と肩は完全に密着し、顔も近いよ。引き込まれそうな柑橘系のフレグランスを漂わせながら、お互いの息がかかるくらいの距離まで詰められている僕は、果たしてこれからどうしたらいいでしょうか。