#038:陳腐な(あるいは、愛の国、)
「入っていい?」
小さな、しかし可憐な声だ……。僕は慌てて後ろを向くと、どうぞと促した。何てこった。何だこのシチュエーション。この頃のひどい不運や災難がついに振り切れて、プラスの方向にそのベクトルを向けたとでもいうのかっ……!? と、僕の左隣に気配が。湯面に波紋ができる。
「チェックアウト前のこの時間帯って、お風呂入りに来る人ほとんどいないんだぁ」
そうなんだぁ。至近距離約15cm。思わずそちら側に目が吸い寄せられてしまう。肩から上が湯面から出ているけど、白く……何というか艷やかな肌だ。目と目が合うと、その女性は軽く微笑んだ。思わずぼーっとなってしまう。吸い込まれそうな瞳とはこれのことなのか。
「……でもキミに逢った。これは何?」
小首をかしげられ、そう聞かれたらこう答えるしかない。
「恋です。そして運命、なんです」
もうどうとでもなるがいい。なるがいいさ。僕はその女性の目を真っ直ぐに見つめ、言い切った。
「うふふ。面白いねキミ。ねえ、どこから来たの? 観光? 今日はどこを回るの?」
言葉ひとつひとつが僕の耳から入ってきて心を揺さぶられるかのようだ。
「地の涯てからあなたに会いに。そしてどこまでもあなたに付き従う者です」
そう、僕はこの人に出会うためにこの地に来たのだ。
「ふふふふ。じゃあ私を連れて行って。北の……最果てまで」
言いつつ女性は少し体を寄せてくると、僕の頬にその愛らしい唇をそっと触れさせた。よし、行こう、宗谷へ。そして還ろう、宗谷岬に。
「……」
決然とした想いで風呂から上がり、浴衣を羽織って脱衣所の外へ。傍には上気した顔も見目麗しい栗色の濡れ髪の浴衣美人。もう何も迷うことなど何もないんだ。
「おおぅ、少年。やっぱ先入ってたのかよぉ。どうだ露天は?」
と、前から来た長髪で汚らしい毛ずねをした細い男が声を掛けてくる。何だ? 朝から酔っ払ってるのか? さらに後ろにはだぷだぷの丸い体の大男に、白いおかっぱの沙悟浄が付き従っている。天竺か? 天竺を目指してるのか?
「おい兄弟! こいつ初摩アヤじゃねえか! 何でここに? 室戸をまさか……」
丸い男め。僕の女神に指を突きつけるんじゃあない。
「大方、タメイドあたりから情報出てやがんだろう。おう女狐、残念だったな。少年をてめえのとこに引き抜こうとでも考えてやがったか? させねえよ」
長髪男が何やらドスのきいた汚い声を僕の聖天使に浴びせかけている。もう許さないぞ、この下賎な輩どもめ。
「下がれ! 無礼なる者ども。自分はこのお方をお護りしつつ、北は宗谷岬まで旅をする者ぞ! 道を開けいっ!!」
そう僕は毅然と言い放つ。が、
「完全にやられちゃってるぅ。さすがねぇん初摩アヤ。そしてムロっちゃん、あなた騙されやすすぎよぉん。そこがいいトコなのかも知れないけどぉ」
カマの沙悟浄が呆れ返った口調で言うのを聞いて、そして「ムロっちゃん」と呼ばれたことで、何となく僕はこの世界に戻ってきたような気がした。
「っ黙れだまれぃっ!! このお方をどなたと心得るぅっ」
薄々感づいてきてはいたものの、僕はこの夢想にすがりつきたかった。だって最近、ロクなことがないのだもの!
「そいつは初摩アヤ。前にも出たが、ダメ界に萌えを持ち込んだ策士よ。こいつは周りの人間をことごとくダメな方向へと引きずりこんじまう、もう『能力』と言っていいほどの手管を持っている抜け目ねえ女郎なんだぜ。危なかったな少年」
アオナギの言葉が冷たく響き渡る。嘘ですよね、嘘だと言ってください初摩アヤさん!! その名前、前にも出たこと記憶してるけど!!
「……惜しかったのになぁ、残・念っ」
言いつつてへっと舌を出す初摩アヤさん。そうでしょうよ。自分でも途中から漂うダメの気配に気づいていましたとも。気づいても気づかないフリでここまで自分を作って持ってきたのに! こんなこったろうと、こんなこったろうと思ってたよ、ちきしょォォォォォォォァァ!!
ダメ立ちぬ 隣はダメを する人ぞ ……室戸です。