#021:峻烈な(あるいは、小一時間ばかり)
「翌年の『謳将戦』でも私は順当に勝ち上がっていった。どん底からもがきにもがいた様が、審査者の共感を呼んだらしい。気がついた時には2年連続しての挑戦者へと名乗りを挙げていた」
僕は目の前にいるこのカワミナミさんが送ってきただろう、壮絶な人生に思いを馳せるばかりだった。強い。強すぎる。
「待ち望んでいた七番勝負の舞台は、両国国技館の地下20m下に位置する『オイノマノススタジアム』となった。春中さんに会える。そして少しはましになった自分の姿を見せられる。そう思い、ムエタイの試合着を身につけ、グローブまで嵌め意気込んでリングに上がった私は、しかし想像を超えた光景と対峙することとなった」
待てよ。国技館の地下にそんな施設あったか? いや、無いと思うけど…
「赤コーナーから現れたのは、引き締まった体をぴったりとしたランニングウェアに包んだ、美しい女性だった。流麗な顔つきと体つき。だが私はその笑顔に見覚えがあった。いや、その笑顔を見たくてここまでやって来たのだと思った。チャンピオン、ユウダイ・ハルナカと高らかにコールが鳴り響く中、私の視界はぼやけてとてもじゃないが、まともな顔をしていられなかった。克服したのだ、と思った。春中さんは自分の、この世の不条理をすべてねじ伏せに行ったのだと」
春中アノは性別適合手術を受けた唯一のアスリートとして知られている。自分の身体に多大な負担を与えながら、世界の頂点に立ったのだ。そんな偉大な人がダメ人間出身とは……他のダメ(アオナギ、丸男)を知る僕には意外も意外でもう眩暈がする。
「七番勝負は試合にならなかった。お互いの一年を言葉に乗せ、すべての想いをぶちまけるだけぶちまけるだけだった。二人とも笑いながら泣いて、泣きながら笑った。そしてよろよろと、どちらからともなく対局席からリングの真ん中に出ると、固く抱きしめ合い、後はもう言葉は出なかった」
カワミナミさんはさりげなく目頭を指で払ったようだ。視界の隅でそれを感じつつも、僕は見ない振りでいた。
「評論家たちには『稀に見る塩試合』、『魂の首相撲』などいろいろなことを言われたが、尻が浮くのがコンマ1秒遅かった私が、その年の勝者となった。春中さんは今度は日本じゃなく世界を獲ると言って笑顔で去った。それから後は知っての通りだ。一方の私は、その年の賞金を手術に費やして生まれ変わった。そして大学を出て就職して今に至る。無論、『謳将戦』を始めとするDNCには極力参加するようにしている。私みたいな人間を、今度は私が救い上げるために」
この人の笑顔には裏が何もない。だからこんなにも輝いて見えるのか。裏にでろでろの悪意やら何やらを盛るだけ盛った(夢にも出てきた)小汚い面々の笑顔を思い出し、何だろう、僕はどちらでもいいので小一時間くらいドツき回したい衝動にかられた。