#170:災難な(あるいは、唯一のオナヒ)
「ムロト、もう対局をやめて! やめなさい!」
僕ら対局者が対峙する舞台……アクリル足場の周囲を巡る壇上に上がってきた紫の革製ボディスーツ姿のサエさんを、視界の端で僕は確認する。悲痛さを感じさせる声。僕の体を気遣ってのことなんだろうと思うけど……
「……」
すみません。でもこの対局はやめない。やめるわけにはいかないんだ。けど……ちょうどいい所に来てくれて良かった。
「……サエさん! これ!」
僕は手早く背中のファスナーを引き下ろし、黒みがかった紅いビロード地のメイド服を、その上の純白のエプロンごと頭から脱ぎ去る。そして把手を右手から左手に持ち替えて右腕からその衣装を抜くと、壇上のサエさん向けて放り投げた。
「預かっといてください! ……大事なそれを酢漬けにすることは出来ないんで」
言いつつ、僕はサエさんに向けて余裕、と思えるような笑みを向けたけど、多分見破られているんだろう。僕はもう限界だ。紅いメイド服を胸に抱きしめ、泣き出しそうに歪められたサエさんの顔が見える。でも、
「アオナギさんトウドウさん! 骨拾う件、お願いしますよ。僕は……」
メイドシューズを蹴り捨て、両脚の黒ストッキングも引きちぎるようにして脱ぎ去ると、僕は把手を後ろ手に両手で掴んで、滑るアクリル足場の上に細心の注意を払って素足で立ち上がった。
「……翼を抱いて落ちます。……立てよ。お前まだ言うことあるんだろ? 逃げんのかよ、逃げんじゃねえよ、男らしくねえぞっ」
そして精一杯の言葉で、翼を挑発する。もはや僕の恰好は、黒いタンクトップに汚れたボクサーブリーフで裸足というほぼ下着状態に、首から上は赤毛にカチューシャのばっちりメイクで左目にはスカウター装備という、いい感じの変態具合になってるけど、そして場はそんな僕の姿に控えめにどよめいているけど、構うもんか。
「……ふざけんな、逃げるわけ……ねえだろ」
そんな変態メイドに思い切りガンをつけてくると、翼も座り込んでいた姿勢から、両脚を踏ん張って体を起こしてきた。そして左手一本で把手を掴み直し、傾斜のきつい足場の上にすっくと直立する。
そういや腕力結構あったんだっけ。いかんいかん、僕の方はもう両腕がプルプル来てるっていうのに。クラッシュも受けずに落ちることだけは避けなきゃ。
「む、むむむむむろむろむろ……っ」
と、僕の左の方から唸り声が聞こえてくる。見ると丸男が僕の姿を見て驚愕の表情を浮かべて全身を小刻みに震わせていたわけで。
「むむムロト、お、お前さん、お、お、おん、おん、お、オナヒぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
白目を剥いてそう絶叫する丸男だったが、その瞬間、その巨体に付けられたプロテクターが全て勢いよく弾け飛んだ。ええ?
「あ、言い忘れてました。平常心乖離率が『400%』を超えますと、いつ何時いかなる時でも『オールクラッシュ』が起こりますので気を付けてくださいねっ!!」
「ねっ」じゃあなぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!! 翼を抱いて落ちる一足前に、僕は自らの手でチームメイトを奈落へと送り込んでしまったようで。これは流石に寝覚め悪い。
拘束から放たれた丸男の体は、そのままアクリルの足場をごろごろと横回転し、その終点にある円柱形の酢酸プールへと鈍い水音を立てながら落ちていった。合掌。骨は……拾いますね。