一章四節 - 漏日大臣の確信
時砂は視線でついてくるように示しながら、歩きはじめた。部屋の前で立ち話をするのは得策でない、と思ったのだろう。
「自ら昇進を請うのは、めったに行われないことだ」
人気のない縁側を歩きながら、時砂が声を低めて言う。
「重々承知しています」
その後ろをついて歩きながら、辰海は応える。
「はしたない、自信過剰などと非難される可能性もある。それも承知なのだろうね?」
「もちろんです」
能力があれば、断らない限り勝手に順位はついてくる。自ら要求する必要はない。
「理由を聞いてもいいかな?」
「姫を――与羽を守るために」
辰海の答えは短い。
時砂はしばらく無言で歩きながら、辰海の言葉に秘められた内容を吟味した。解釈は何通りもできる。そのうちのどれかか、はたまたすべてか。
「中州では――」
「僕はこれから中州を出ますので」
辰海は失礼だと思いながらも、時砂の言葉を遮って言った。
「……確かに」
辰海が今回の旅に城主代理補佐として参加することは、中州一行を取り仕切る漏日時砂大臣ならばもちろん知っている。
「…………」
しばらくの間、時砂は無言で考えた。
文官三位である彼は、官吏の人事を統括している。官位については、城主の承認も必要だが、おそらく乱舞は反対しないだろう。
中州の全てにおいて大きな発言力を持つ最上位の大臣――卯龍も反対しないことは知っている。
「卯龍さんから常々言われてきたのは――」
時砂は白髪の大臣の顔を思い出しながら、記憶をたどった。
「辰海くんに関しては二点。『古狐』の名だけで、順位を上げるな。本人が望まない限り、順位を上げるな」
前者は、文官筆頭家の出身である辰海を特別扱いしないためのものだろう。
後者は――。
「与羽離れを待っていたのかもしれないが……」
辰海が官吏の仕事にあまり積極的でなかったのは、与羽とともにいられる時間を削りたくなかったからだ。辰海が与羽に特別な想いを抱いているのは、城下町に住む人のほとんどが察している。
その想いが落ち着き、国のために働く意志を持つまで待っていたのかもしれないが、いまでも辰海の中心には与羽があるようだ。
辰海が「中州のために官位が欲しい」と言えば、迷わず上級文官に指名した。
自分のためでも、家のためでも、金のためでも、与羽以外の理由ならこれほど迷わない。
辰海にはすでに上級文官としてやっていけるだけの知識と能力がある。経験はまだ浅いが、それはそのうち自ら身に着けていくだろう。
「僕が与羽につくのが不安ですか?」
辰海が時砂の内心を察して尋ねた。
「まあね」
時砂は素直に答えた。
「貸本屋や隠れ里の件で確信したけど、君はとても有能だ」
だからこそ、城主ではなく姫に辰海がつくことが不安だ。
「でも――。まぁ、可能性のかなり低いことを危惧して、君を下級文官にとどまらせておくのももったいない」
与羽は中州とそれを治める兄を強く愛している。彼女が中州のために動けば、辰海もおのずと中州の役に立ってくれるだろう。
今はそうと信じるしかない。
「いいだろう」
時砂は、紙と筆、墨を出し、近くの柱を支えに辰海の上級文官への登用を城主に求める書状を作成した。
「正式な任命書は城主や大臣と協議した後、数日中に渡す。これからも中州と城主のために励んでくれ」
時砂はわざと「中州」と「城主」の言葉を強調した。
それに辰海は苦笑したが、彼の回答は変わらない。
「はい。与羽と、彼女が何よりも、誰よりも愛する中州と城主のために僕のすべてをささげます」
わずかに国と乱舞に対する嫉妬をにじませつつも、辰海の目はまっすぐだった。
不安定なところ、心配なところはあるが、彼ならば絡柳同様、次の世代の官吏を引っ張っていけるだろう。
時砂は、確信をもって感じた気持ちを城主や他の大臣に伝えるべく記憶した。