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龍神の詩7 - 嵐雨の銀鈴  作者: 白楠 月玻
十章 幻惑と決別
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十章六節 - 炎狐の幸せ

「ごめん、たつ……。けど――」


 辰海が止まってくれたのを確認して、与羽は謝りながら彼の左腕を軽くつかんだ。


「平気」


 しかし、辰海はぶっきらぼうにその手を払い、自分の左手のこうで口元をぬぐう。与羽と距離をとって見むきもしない。彼の表情は、うつむいていることに加え、髪に隠されてひどく読みとりにくい。


「辰海?」


 そう問いかけて、やっと彼の目がこちらを向いた。釣り目なため、もともときつい印象を与えるが、今まで見たことないほど、鋭く厳しい。与羽を見るときにいつもたたえている、思いやりにあふれたやさしい光はない。

 怒っているのだと容易に察せた。今まで見たことがないほど怒っている。

 与羽は辰海から反射的に目をそらしてしまった。


 ギリ……、と辰海が歯を噛みしめる音が恐ろしく、再度顔をあげることができない。

 辰海は再度手巾を取りだし、乱暴に与羽の左耳と目じりをぬぐった。先ほどよりも力がこもって、痛かったが、それを訴える勇気はわかなかった。


「もどるよ」


 しばらくして手巾を仕舞った辰海は硬い声で言って、踵を返す。


「ん……」


 与羽はかろうじて返事をして、それに従った。すでに歩きはじめている辰海の背を見つめて、それについて行く。


 風見(かざみ)に嫁ごうとして辰海を怒らせてしまった。殴ってしまった。

 謝らなくてはならない。しかし、見つめる辰海の背は、与羽が話しかけることを拒否する威圧感を発していた。

 怖くて声がかけられない。いつもやさしかっただけに、こういう時の対処法がわからない。


 昔――、あの時はどうしただろう?


 与羽は辰海と口をきかなくなった数ヶ月間の記憶をたどったが、あの時と今は状況が違うと、思い直す。今回の非は完全に与羽にあり、辰海は怒りをこらえようとしてくれているようだ。


 声をかける勇気がわかない。


 与羽は辰海の様子を確かめようと、そっと彼の袖をつかんだ。引き留めるように軽く引っ張ってみる。


 しかし――。


「今の僕に触らないで」


 低い声で言われ、乱暴に手を払われた。

 与羽の足が止まる。それでも、辰海は止まらずに歩き続けている。

 あふれそうになった涙を目を強くこすって抑え、与羽は数歩遅れて彼のあとをついて行った。


 その距離を保ったまま、部屋が見える場所まで送ってもらい、無言で別れる。感謝の言葉さえ伝えられなかった。


「ご主人さま、辰海殿と何か――?」


 部屋の前で待ってくれていた竜月がその様子を見て聞いてくる。


醍醐(だいご)様は――?」


 与羽はそれに答えずに、すでにこの場にいない風見領主の四男について尋ねた。


「あのあとすぐに何も言わず、どこかへ行かれました。ことを荒立てるわけにはいきませんでしたので、追うことが――。って、ご主人さま?」


 与羽は竜月の答えをすべて聞く前に自分にあてられた部屋に入ろうとしていた。


「今日はもう一人にして欲しい」


「でも、――。…………わかりましたぁ」


 与羽の態度に何を感じたのか、竜月はそれ以上詮索することなくうなずいた。


「お部屋には誰もいません。お茶と軽食を用意しておきましたので、よろしければお召し上がりください。お湯も置いてあります。まだ冷めていないと思います。……その、今日は不快な思いをされたと思いますので」


「ありがと」


 与羽の声はひどく沈んでいる。


「もうええよ。大丈夫」


 そして、与羽はぴしゃりと部屋の戸を閉めた。


 その瞬間、涙があふれた。

 一人になると、色々なものが脳裏を駆け巡る。醍醐から受けた恐怖もだが、それ以上に辰海に何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと。

 後悔しても遅いことは分かっている。それでも、様々な可能性が浮かんできて、それと同時に涙があふれた。


 湯にも軽食にも手を付けず、用意されていた寝具に倒れ込む。柔らかな布団に顔をうずめておえつを殺した。


 もしかしたら、自分は辰海に甘え過ぎていたのかもしれない。辰海は何をしても、何を言っても笑顔で許してくれた。どんなわがままでも聞いてくれた。

 辰海のやさしさに依存しすぎてはいなかったか。彼のやさしさに甘えて、召使のように扱ってはいなかったか。


 いくら中州の姫だからと言っても、やっていいことと悪いことがある。

 中州を離れて風見に嫁ぐ、と言ったのがまずかったのか。自分の本心に反するわがままを言ってしまったから。


 昔、辰海と一時的に口をきかなくなった時、誰にも頼らずに生きると決めたのではなかったか。それがたった数年でこうだ。


 ――少し、辰海と距離を置いた方がいいかもしれん……。


 そうしないと、辰海にまた迷惑をかけてしまう。

 彼はとても優秀で、将来性のある人間だ。「姫」という生まれ以外に何の地位も能力もない自分ではなく、城主に尽くし、中州のために働いてほしい。

 今では辰海が上級文官になったのは、良いことだったと思える。このまま与羽に気を遣うことなく、出世することが辰海にとっても幸せなはずだ。


 辰海は、今までたくさん楽しいことやうれしいことをくれた。望みを叶えてくれた。

 彼は罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。

 与羽は無意識に額の傷を指でなぞった。はっきりとその存在を感じられる。この傷は一生消えないだろう。しかし、もう十分に癒えた。


 今日のことにしても、今までは与羽のせいで気苦労が絶えなかったはずだ。それから解放してあげたい。

 明日、辰海に会ったら感謝と謝罪、そして今考えたことを伝えよう。

 辰海には、誰よりも幸せになってほしいから。

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