十章五節 - 炎狐の嫉妬
与羽が見上げた辰海の顔は、今まで見たことがないほど怒っている。眉間には深いしわがより、いつもより鋭さを増した瞳の奥には激し感情が垣間見えた。
一方の与羽は、今にも涙をこぼしそうな目に浮かぶ戸惑いが隠しきれない。
「辰海」
そこまでは何とか目を見て言ったが、その後視線を足元まで落としてしまう。
「私は――」
「言うなって言ってるでしょ」
消え入りそうな声を強い口調で遮られて、与羽はそれ以上何も言えなくなった。
「来て」
辰海はそんな与羽の左手首をつかんだ。そのままどこかへ連れて行こうとする。
与羽をつかんでいる右手は、マメが少なく皮膚自体は柔らかかったが、握力はさすがに強い。
「痛い……」
思わず漏れたつぶやきも聞こえていないのか、辰海は人気のない場所まで与羽を連れて行った。
「辰海……」
手首を解放されたところで、与羽はぎこちなく辰海の様子をうかがったが、彼の怒りは消えていない。
「辰海、ごめん。けど、私――」
「風見醍醐に嫁ぐなんて言ったら許さないよ。そんなことさせるくらいなら、君をさらった方がましだ」
辰海の口調は硬く厳しい。
彼はおもむろに手巾を取り出すと、与羽の髪や耳、顔などをぬぐいはじめた。
「けど――」
「風見に嫁いでも君は幸せになれない。いや、どこにでも幸せはあると思う。でも、中州にいた方が絶対により幸せだ。だから、風見にも他の国にも嫁かせない」
与羽の体をぬぐう辰海の力が強くなる。痛かったが、それに文句を言う勇気はない。
「辰海は、私の望みならなんでもかなえてくれるって――」
「まだ言うの?」
辰海の声が一層怒りを帯びて冷やかになる。
「風見に嫁ぐなんて、君は全く望んでない。君は中州の利益を考えて、頭ではそう望んでるかもしれないね。でも、君の心はそんなこと全然望んでない」
「それは――」
否定できない。風見醍醐に嫁ぐと考えると、中州の人々や風景ばかりが脳裏をよぎって涙が止まらなくなる。大好きな中州を離れたくない。強くそう思った。
「僕は君の望みを叶えるって言ったけど、僕にだって願いはある。悪いけど、僕と君の望みが相反するものなら、自分の方を優先するから」
「けど、風見との関係が……」
「そんなことどうでもいい。僕個人はね。もっと一般論で言えば、中州の官吏を見くびらないで。こんな些細な事件、どうこじらせても大問題にしようがない。……僕にとっては全然些細な事件じゃないけどさ」
辰海がギリリと歯を噛みしめて、手巾で与羽の唇とほほに伝う涙をぬぐう。
醍醐を一発殴っただけでは全然足りない。
辰海が見た時、醍醐は与羽を抱き寄せ、あごをつかんで自分の方へ上向かせていた。
耳元で声をかけてもいた。あの時彼の唇は与羽の髪に触れていたはずだ。もしかしたら、耳にもあたっていたかもしれない。
そう思うと許せない。
強く与羽を抱き寄せた。少しでも与羽との距離を狭めたくて、全身を使って与羽を包み込む。
「辰海、苦し……」
与羽のかすれた声が聞こえるが、それでも腕を緩めることはできなかった。この姫君が欲しいと、かつてないほど強く思った。
醍醐が唇を寄せていた左耳にそっと唇をはわせる。
与羽の肩がわずかにはねた。
「たつ……」
戸惑うような与羽の声を聞きながら、彼女の目じりにたまった熱い滴を吸い取った。
「……やめて、辰海」
与羽が力なく辰海の胸を押し返す。
しかし、辰海の体はびくともしない。
「やめて!」
今度は渾身の力を込めて、突き飛ばした。それでも、辰海はそれより強い力で与羽を抱き寄せてきた。
辰海の狂気をはらんだ目が与羽を見る。怒り、焦り、嫉妬、情熱――。様々な感情で濁った辰海の瞳に、恐怖に染まった与羽の顔が映った。とめどなく涙を流し、ひたすら許しを請うような、恐ろしいものが通り過ぎるのを待つような――。
辰海がひるむ。
その目にわずかに理性の色が戻ったのを感じて、与羽は「放して!」ともう一度辰海の胸を力いっぱい押し戻した。
わずかに二人の距離が離れる。しかしすぐさま自分に延ばされた手を、与羽は乱暴に払った。
それでも辰海が一歩踏み込んできたので、平手打ちを見舞う。
パアンッ……
辺りの虫たちが一瞬鳴き止むほどの音が響き渡った。
辰海の姿勢が崩れたが、倒れるまではいかない。




