十章四節 - 醍醐と炎狐
「ご主人さまぁ~?」
その声が聞こえたのだろう、さほど遠くない位置にある部屋の戸が開いた。そこから竜月の顔がのぞく。次の瞬間、竜月の顔色が変わった。
「ご主人さま!」
大きな声で叫んで駆けてくる。
「醍醐様! 何をなさっているのですか!?」
その時には、竜月の叫びを聞いた護衛官の千里と巫女の実砂菜も飛び出してきていた。今その部屋にいたのはこの三人だけらしい。
「いやなに、風見と中州が今後さらに良好な関係を築くために、二人で親交を深めていただけですよ」
「ねぇ?」と醍醐が与羽の耳元に唇を寄せてくる。
与羽はうつむいたまま何も答えない。
「醍醐様、姫様から離れていただけますか?」
千里は腰に佩いた刀の柄に手をかけながら言う。
「そう言われましても、姫様は抵抗されておりませんし、親交を深めるのには賛成だそうですよ」
「与羽姫様は風見には嫁ぎません」
醍醐の言いたいことを正確に察した竜月が、きっぱりと言った。
「ご主人様の口からも、はっきりおっしゃってください」
与羽は何も答えない。
ここで醍醐を拒否すれば、千里と実砂菜が武力行使をしてでも助けてくれるだろう。
しかし、その後中州と風見の関係がどうなるのかわからない。自分一人のせいで、国家間の問題を生むわけにはいかない。
幸い与羽の指示がなければ、中州の面々は動けない。与羽が風見に嫁ぐと言えば、絡柳や漏日大臣はおろか、乱舞でさえその決定に否を唱えることはできないはずだ。
自分一人が我慢しさえすれば……。
与羽の目から希望が消えたのを見たのか、竜月は助けを求めるように辺りを見回した。
「辰海殿を――」
そうつぶやいて全力で駆けだす。
辰海だって、自分には逆らえない。与羽は諦めはじめた頭の隅でそう思った。
「あなたが本当に嫁いできてくださるのなら、わたしは今までの放蕩生活をすべてやめます」
与羽は何も答えなかった。目線は自然と竜月が駆け去った方向を向いている。
醍醐はもちろん、中州のふたりさえ今は見たくない。彼女たちの表情を確認してしまうのは怖い。
「たとえ古狐の名を持つ者だとしても、あなたの決定は覆せませんよ」
耳をほとんどかすめる位置でそうささやかれても、与羽は竜月の消えた角を見つめ続ける。
――早く。
なぜかそんな言葉が胸をよぎった。
「与羽姫様。こちらを見てください」
わずかにいらだたしさをにじませながら、醍醐は与羽のあごをつかんで無理やり自分の方を向かせた。
「与羽!!」
しかしその時、聞きなれた声が聞こえて――。
「辰海っ!」
与羽は醍醐の爪がほほを傷つけるのも気にせず、振り返った。
先ほど竜月が消えた角を曲がって、こちらにかけてくる辰海と目があう。与羽の顔に深い安堵の表情が浮かんでいるのに気付かないのは与羽本人だけだ。
「与羽姫様!」
しかし、醍醐も鋭く呼んで与羽の意識の一部を自分に向けさせる。
「いいんですか?」
耳元に吹き込まれたのは要領を得ない問いだったが、与羽はその意味を正確に察した。
与羽が辰海に助けを求めれば、中州と風見の関係にひびが入る危険性がある……。
与羽の顔から表情が消えた。
「辰海、止まって! 私は――」
「言わなくていいよ」
辰海は冷えた口調で与羽の言葉を遮る。
与羽の制止も聞かなかった。
硬く握り込んだ辰海のこぶしが醍醐のほほにめり込む。
「ちょ……!」
戸惑いの声をあげたのは誰だったか。
相手国の要人に暴力を振るうなど、辰海の行動は確実に問題になる。
辰海は片手で与羽を醍醐から引き離しながら、もう片方の手でよろめいた醍醐の頭をつかんだ。
「辰海!」
醍醐の顔面に叩きこまれそうになった膝を与羽が慌てて抑える。
与羽と辰海の目が合った。
醍醐はその隙に辰海の手から逃げ出し、ある程度距離をとっている。
「なるほど」
醍醐の口からそんな面白がるような呟きが漏れた。




